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第16話 朝礼台

 週末に向けて急な仕事が入り、夕子は時間に追われた。
 朝から取引先に直行し、社長室に戻って事務的な整理をするとまた外出する。移動の間も細井や他の役員たちと打合せ。余計なことを考える暇が無かったのが幸いしたと言って良いだろう。変な噂≠フ主たちと普段通りの会話をする自信はなかった。
 いつもの社内巡回をする時間もなかった。
 時間があっても、できていたかどうかはわからない。あの子と役員以外、顔を合わせることがなかったのは、夕子にとって良かったのか、悪かったのか。問題の解決は次週への持越しとなった。
 週末は章雄と共に過ごした。
 お決まりのデートコースだ。映画を見て、食事をして、ホテルに入って。
 稚拙なセックスなどと言ったら罰が当たる。こういう時の章雄は、夕子にとって掛け替えのない存在であると、つくづく思い知らされた。
「私たち、結婚するのよねぇ」
 章雄の胸に顔を埋める夕子。
「どうしたんだい、今日は。随分と甘えているけど」
「イヤなの?」
「そんなことはないけど……」
 いつもの夕子さんじゃないじゃないみたいだから、章雄は、きっとそう続けようとしたのだろう。だが、その言葉を夕子は唇で塞いだ。
「だったらいいじゃない。もっと甘えさせてよ」
 夕子は、章雄に絡みついた。
(そうよ。もうすぐ寿退職なんだから)

 月曜日、細井に連絡を入れ、夕子は三十分遅れで出社した。理由は言うまでもない。朝のラジオ体操に出たくなかったからだ。

 ――それって、パンツ見せたがってるってこと

 そんな風に思われている場所で堂々としていられる自信が夕子にはなかった。出社拒否症は、両親が無くなった直後、急に社長職を押し付けられて以来だった。
 出社すれば社員たちと顔を合わせなければならない。皆、夕子を露出狂だと思っている、あるいは、疑っている者たちだ。言い訳など通用しないだろう。
 期せずして勇退の話も出ていた。章雄の両親も挨拶に来ると言う。資金面での課題は残しても、手形の件も解決しそうだ。
「もう会社なんか辞めちゃおうっかなぁ」
 何度も口に出そうになるセリフを飲み込んだ。
 玄関口で一人の女子社員とぶつかりそうになった。慌てて「すみません」と駆け出す女子社員。いつかも、全く同じ光景を見た覚えがあった。
 相手もその時のまま、つまり、山野晴夏だった。
「また、あなたなの」
 声を抑えてはいたが、夕子はキレる寸前だった。晴夏は、弘治から聞いた飲み会で夕子を露出狂と断定した張本人だ。
「すみません。また、雑巾掛けですか」
 半身で構える態度も腹に据えかねた。晴夏に会いたくないから、わざわざ時間を遅らせて出社したようなものなのに、これでは何にもならないではないか。
 胸の奥にいた醜い部分が頭を出した。
「今日のところはいいわ。その代わりと言ったら何だけど、あなたにやって欲しいことがあるのよ」
 内心とは裏腹に、自分でも感心する程、おだやかな口調だった。
「何ですか」
 それでも警戒心を解かない晴夏。
「ラジオ体操の登板があるでしょ。次の登板の時、あなたにもスカートで朝礼台に上がって欲しいの。私だけだと露出狂だってことにされそうなのよ。協力してくれないかな」
 これで意味は通じた筈だ。晴夏の表情が一瞬の内に二度変化した。
 一度目は驚き。二度目は怒りだろうか。
「どうしてあたしが?」
「あなたにして欲しいのよ」
 夕子にとっても賭けだった。もしかしたら晴夏がキレるかもしれない。「あたしは社長のような露出狂じゃないわ」などと開き直られたらどうするか。
 黙って下を向いたまま動かない晴夏。夕子は歩みより、晴夏の肩に手を置いた。
「あなた、私のヘアーを剃りたいんだって」
 ハッと顔を上げ、夕子を見つめる晴夏。何で知ってるの≠ニ言ったところか。
「剃らせてあげてもいいわよ。私のお願いを聞いてくれたらね」
 また言ってしまった。若い子を見ると、男女を問わずからかいたくなってしまう夕子の悪いクセなのかもしれない。
「わかりました」
 晴夏は低い声で答えると、夕子を一睨みした後、廊下を走り去った。
(ホントにやるのかしら)
 どうせこの場の思い付きだ。たいした期待も持たず、夕子は社長室へと入った。
 イヤな気分は、少しも解消していなかった。
「もう会社なんか辞めちゃおうっかなぁ」
 飲み込んで来た言葉だが、ここでだけは実際に口にすることができた
「好きにしたらいいじゃないですか」
 どうにも投げやりな答えが返って来た。
「あら、どうしたの。あなた、暗いわよ」
 珍しいこともあるものだと、夕子は多少、心配になったが、
「今の社長に言われたくはないですけど」と前置きした上で「だって、郷原さんはもう降参ってことでしょ」
 意外なことを言い出すあの子だった。
「降参ってどういうことよ」
 郷原は怪メールをばら蒔き、夕子を揺さぶろうとしているのではないか。その陰で何か想像も付かないことを企んでいるのではないのか。
 もっとも、夕子はすでに充分、揺さぶられていたのだが。
「怪メールなんて、手形の決済に何の効果もないですよ。期待した私がバカでした。郷原さんがこんなことするなんて、他に有効な手段がない証拠です。これががっかりしないでいられますか」
「ん?」と首を捻る夕子。(そうなのだろうか)
 弘治に話を聞いて以来、夕子が社員たちに露出狂だと思われていることばかり気にしていたが、考えてみれば、それ以外に何の不利益もない。
「考え過ぎだったのかしら」
「むしろ見当違いだと思いますよ。それなのに、あんなところで山野さんに絡んだりして。可哀想じゃないですかぁ」
「見てたの」
「えへっ」
「えへっ≠カゃないわよ」
 全く、油断も隙もないとはこのことだ。
 それはそれとして、夕子の心がすっかりほころんでしまった。落ち込んでいた夕子を見て、あの子なりに気を遣ってくれた結果だろうか。
「それにヘアーを剃って欲しいなら、私に言えばいいじゃないですかぁ」
 前言撤回の夕子だった。

 午後からは米倉クリニックに行く予定になっていた。
 先日、ハプニング―バーで逃げ出した経緯がある。澤野真知子と会うのはいささか気が重かったが、事故の真相に迫るには会わない訳にはいかなかった。
 細井から連絡が行っている筈だ。真知子も、もう守秘義務云々を言うことはないだろう。真実を知るのは怖くもあるが、そこに何かが隠されていることは間違いない。夕子は郷原さんが可哀想≠ニ言える事実に至っていなかった。
 タクシーを呼んで、あの子と二人、会社を出た。
「遅刻しておいて午後から早退なんて、ホントに不真面目な社長だわ」
 夕子の反省の弁に対し、
「そんな社長には、ノーパンで雑巾掛けして貰いましょうか」
 晴夏のことを言っているのか。
「わかっているわよ。明日、謝っておくわ」
「明日からはちゃんと朝礼に出てくださいよ。靴も履きかえたりしたらダメですからね」
 いつも通りにしてないと、噂を肯定しているようなものになってしまうと言う意味か。
こういうところには、よく気が付くあの子だった。
 夕子が「わかったわ」と返すより早く、
「あっ! そう言えば、例のサイト、更新してましたよ」
 切り替えが速いものだと思いつつ、スマホで久しぶりに露出っこクラブを覗くと、Y子の投稿が更新されていた。前回よりさらに過激な露出になっているのだろう。夕子の期待は、否が応でも盛り上がった。

〇Y子 全裸を見られる練習だって

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
前回、コンビニの店内を全裸で歩きました。
A子も褒めてくれたのですが、全然、満足してくれません。
もっとすごいことを考えていたのです。
「大勢にハダカ見られるなんてムリだよ」と泣き付くと、
「それなら、見られる練習をしよう」と言い出し、近くの公園に行きました。
公園の奥は林になっていて、その中に入りました。
何をするのかと思っていると、A子はパーカーを取り出して、
「ハダカの上にこれ一枚だけになってくださいね」
「うっそー」
「大丈夫です。行くのはすぐそこですから」
確かにすぐそこでした。
公園の裏手が線路に面していたのです。
フェンス沿いのその場所なら、公園からは見えません。
パーカー一枚の頼りない格好でも、A子の言う通り、とりあえず大丈夫でした。
線路脇ですから、電車が走って来ます。
A子は、その通り過ぎる電車に向かってパーカーの前を開くようにと命令しました。
距離にして十メートル足らずです。
「恥ずかしいのは一瞬ですから」
簡単に言いますが、パーカーの前を開いたら、身体を全部見られてしまいます。
近くの路線です。
私の知っている人が乗っているかもしれないのに。
でも、A子は許してくれません。
さっき脱いだばかりの衣服を鞄に詰めて、やらないならこの格好のまま、ここに置いて行くと言うのです。
まだ昼間です。
パーカー一枚では家まで帰れません。
私も少しだけならと思い、やる決心をしました。
電車が来ました。
A子の「今よ」と言う合図で、パーカーの前を開きました。
コンビニの時は鞄を抱えていたので見られなかった部分も、全部、見えています。
と言うか、見せています。
乗客からも、私のハダカが見えている筈です。
何人くらいが気づいたでしょうか。
私がハダカだってわかったでしょうか。
どっちにしても、見られていることには変わりありません。
喉がカラカラに乾きました。
死ぬ程恥ずかしいのだから前を閉じれば良いのに、私の両手は動きません。
まるで金縛りに遭ったようです。
そのまま、全裸を見せ続けていました。
電車が通過するのが、とても長く感じました。
やっと行ってしまった後、私はその場に座り込んで動けなくなりました。
「たくさん見られちゃいましたね」
A子が笑っていました。
「あーん、恥ずかしいよぉ」
私はパーカーに包まったまま「恥ずかしい、恥ずかしい」と連呼していました。
「少しは慣れたんじゃないですか」
もんろん、全然慣れてなんかいなかったのですが、それを言うと次の電車でも同じことをさせられそうです
「うん。少しは慣れたかな」って、言ってしまいました。
A子は喜び、
「じゃあ、次はまたコンビニね」って。
条件もきつくなりました。
脱いだ服を鞄に入れて、トイレに置いて行くこと。
身体には一片の布も着けずにトイレを出ること。
その格好でコンビニの店内を一周してから外に飛び出すこと。
以上の三つを実行するように、とのことでした。
こんなの、さすがにムリって言ったのですが、聞いてくれそうにありません。
こんなこと、ホントに実行しなければならないのでしょうか。
出来なければ罰ゲームだって、A子は言うのです。
実行しても、途中で止めたり、最後までちゃんとできなかったら罰ゲームだって。
やっぱ、やるしかないみたいです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 読み終わった夕子は、隣に座っているあの子を見つめた。
 この投稿はあの子が書いているに違いない。夕子にも、こういう露出をさせたいのだと言う推測が、ますます強くなっていた。
「何ですか」
 とぼけてはいるが、きっと近い内に言ってくるつもりなのだろう。「Y子さんと同じことをしてみましょうよ」と。 
 夕子は思った。
 その時は言ってやろう。「このA子って、あなたのことでしょ」と。
 あの子はどんな顔をするだろう。
 夕子にとっては、密かな楽しみとなっていた。

 米倉クリニックに着いた。
 相変わらずカフェのような診察室に通された。前回とは違う部屋だったが、造りは基本、同じらしい。隣であの子がにやにやしていた。
「社長のいよいよストリーキングですね」
 催眠術を掛けられて来たと思っているのか。
「さあね」と、とぼける夕子。あの子にかまっている余裕はなかった。
 これから、あの日の真実に迫るのだ。消された記憶には何が隠されているのか。それを知ることは、真知子の言う解放≠ノ繋がるのか。
 だとしたら、夕子の何が解放されるのか。
 クリニックの建物に入り、その実感がより強く夕子を責め立てた。
 程なくして真知子が現れた。電子カルテだろうか。その手にはタブレットを一つ携帯していた。
「この間はどうもね」
 いきなりそれか。
 夕子は取りあえず、突然逃げ出した件を謝っておこうと思っていた。
「先日は失礼しました。どうもあの雰囲気に飲まれてしまったようで、大変、申し訳ないことをしてしました」
 椅子から立ち上がり、深々と頭を下げる。今になって思えば、あの日の勘定も払っていなかった。
「いいのよ。初めてだったのだものね。こっちこそ配慮が足りなかったわ」
 真知子に勧められ、座り直す。
「そう言って頂けると助かります」
 元々は真知子が連れて行った店だ。むしろ当然の成り行きかもしれない。そう思いながら、夕子は続けた。
「あの人、どうしてますか。梨花さん、でしたっけ」
 女性として生きてはいられないような屈辱に遭わされた梨花だ。その後、何かがあってもおかしくない。
「普通にOLしてるわよ。女子社員にとっては怖い上司かしら」
「そうなんですねぇ」
 夕子は、ある意味、感心していたのだが、
「あんな目に遭っても普通でいられるのが不思議でならないみたいね」
 図星だった。
「はい。私なら無理ですよ」
「そうね。ごく一般的な女性の場合はPTSDを起こしているでしょうね。でも、梨花の場合は違う。口では辛いと言っていても、結局、また同じ目に遭いに来るの」
「そういう人もいるんですねぇ」
 夕子には他人事だった。
「それだけじゃないの。恐らく梨花は職場でも同じような目に遭いたいと思っているわ。所謂、社内奴隷ね。普段は自分が厳しく指導している後輩たちと立場が逆転して、無抵抗のまま蹂躙されることを望んでいる。まあ、こっちは現実にはならないだろうけどね」
「はぁ……」
 そこまで言われると、正直、食傷気味だった。
「あら、ごめんなさい。そんなことを話にして来たんじゃなかったわね」
 真知子は、本題に入ろうとした。

 ――何よりも先に、社長を連れ出さなければならない理由があったのでございます

 細井の言っていた理由≠ニ言うヤツだ。それを聞くために、夕子は今日、ここに来た。細井の口からは言えないこと。真知子に聞いて欲しいと頼まれた事実。なぜ郷原さんが可哀想≠ネのか。
「事故現場で細井さんの車に乗せられたところまでは聞いているのよね」
「はい。そうです」
「細井さんは、その理由を私に聞けと言ってのよね」
「そうです。自分の口からは言えない、と」
 やはり、細井と真知子は連絡を取り合っていた。どういう関係なのか。ある意味、一番重要な部分を丸投げしたようなものだ。
「驚かないで聞いてね」
 大きく頷く夕子。真知子の目が、夕子の隅々まで観察しているようだった。
「あの時、夕子ちゃんは全裸だったのよ」


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