第15話 リーク
その日は朝から気ぜわしかった。
T自工の堀田が上司――肩書きは支社長となっていた――と部下二人、合計四人で星崎工業所を訪問して来た。目的はもちろん、特許権の売買だ。契約はすでに結ばれていたが、今日、いよいよ特許権を譲渡し、その代金として二十億円の預手を受け取るのだ。
星崎工業所の会議室で、T自工の四人と星崎工業所の全役員がテーブルを挟んで対峙した。通り一遍の挨拶の後、夕子は、
「こちらが今回の特許証、並びに、移転登録申請書とその添付書類です。どうぞ、ご確認ください」
テーブルの上にそれらの書類を差し出した。
堀田が受け取り、上司に見せ、自分でも一通り確認した後、大きく頷く。
「確かに確認させて頂きました。こちらがお約束の預金小切手です」
逆に差し出された○○銀行の封筒。夕子が受け取り、中身を確認すると細井に預けた。
「確かに受け取りました。問題はないと思いますが、特許の移転登録が完了するまでは、こちらにも責任がございます。何かの時はご連絡ください」
夕子は大きく頭を下げた。他の役員たちもそれに倣う。この預手がどれだけ大切であるか、星崎工業所の役員たちは皆、同じ思いでいたことだろう。
「こちらこそありがとうございました」
支社長の挨拶は、幾分、儀礼的だったかもしれない。世界のT自工と一中小企業では致し方ないか。
「では、難しい話はこれくらいにして、どうぞご寛ぎください」
夕子の合図で女子社員が出ていた。お茶とケーキの用意をしてあったのだが、支社長と部下の二人は早々に引き揚げた。
最後に残った堀田は、
「またすぐにでも新しい製品を開発してくださいね。そうじゃないと、星崎社長に会えなってしまいます」
相変わらず、冗談とも本気とも取れる言い方だ。
「あら、残念。私の方はプライベートでも構いませんのに」
夕子も話を合わせる。
「本当ですか……って、ご婚約なされたのですよね」
「よくご存じで」
「それは星崎社長のことなら何でも調査済ですよ。でもこれで代金の支払いも済みましたし、変な噂も消滅ですかね」
章雄との婚約を知っていたのにも驚いたが、さらに変な噂≠ニは何のことか。まさかとは思いながらも顔には出さず、
「そういうの、ストーカーって言うのではないですか」
堀田は大げさに手を振り、
「止めてください。いくらなんでもストーカーはひどいですよ。星崎社長にそんな言われ方をされたのでは、もうここに来られなくなってしまいます」
気心に知れた堀田と夕子と役員たち。しばし談笑の後、この場はお開きとなった。
社長室に戻った夕子は、コンクリートの壁に組み込まれた金庫を開けた。中にはすでに診断書が入っていた。先日、美倉医師がファクスしてくれた物の原本が郵送で届いていたのである。その上に二十億円の預手を乗せ、ダイヤルを回し、鍵を掛ける。鍵は夕子と細井が一つずつ所持していた。
――素っ裸にして表通りに放り出してやる
郷原の言葉が耳に甦ったが、
(あなたの希望通りにはなりそうもないわね)
金庫の扉を見つめながら、夕子は胸の内で呟いた。勝負はあったと言って良いだろう。もう郷原にはどうすることもできない。
「敵に塩を送るのではなかったんですかぁ」
あの子がつまらなそうに言って来た。
「これでいいのよ」
「何だか吹っ切れちゃってますね。ついこの間までは震え上がったり、焦れたりしていたのに。つまんないの」
そうかもしれない。だが、震え上がったり≠ヘともかく、
「焦れたり≠チて何のことよ」
それではまるで夕子自身が、
「素っ裸にされて放り出されるの、期待していたじゃないですかぁ」
「それはあなたでしょ」
「そうでしたっけ」
「そうよ。だからこれでいいの」
夕子は、自分に言い聞かせているようだった。
「そうだ。私が小切手と診断書を持って逃げると言うのはどうですか」
一瞬で夕子の大脳がフル回転した。
小切手と診断書がなくなる。盾と鎧を同時に奪われた夕子は、手形を落せずに代位弁済契約が実行され、最期の砦も攻め落とされる。郷原の望むままに丸裸に剥がされ、会社から追い出される。
何度も恐怖した光景だったが、今はどちらも金庫の中だ。
「それいいわね。でも捕まった時は覚悟しなさいよ。二十億円も盗んだら初犯でも実刑は逃れられないわ。あなたの場合、私を辱めるのが目的だから強制わいせつ罪も上乗せしてあげないとね」
夕子の余裕の反撃だった。
「そんなぁー。社長のためにやっているのにぃ」
「何が私のためなのよ。でも、どうせやるなら、上手くやりなさいよ」
夕子は何を言っているのか。
実際のところ、金庫の鍵の場所も知っているし、ダイヤルも教えてある。あの子が持ち出そうとすれば、いつでも可能なのだ。
「それなら、手形の期日まで隠しておくと言うのはどうですか。後で見つかるのはわかっているんだから、会社には損害を掛けないでしょ」
「そんなの郷原さんが……」
許す訳がない、と思いつつも、夕子の頭に一つのアイデアが生まれていた。
「そうしましょうよ。紛失したことにすればいいんです」
どこに隠そうかなぁと、あの子は一人で舞い上がっていた。
夕子はデスクに両肘を突き、思い付いたばかりの発想――秘策と言っても良いだろう――を整理し始めた。多少のリスクは覚悟しなければならないが、上手くいけば、本当にすべてが丸く治まるのではないか。
だが、どうすれば形になるか。
正直なところ、今はまだ取っ掛かりも掴めない状況だ。細井に相談しようかと思った時だった。社長室のドアをノックする音が聞こえた。
「社長に少しお話がございます」
細井が入って来た。やや深刻な顔付きに見えた。
「何かしら」
夕子は立ち話で済まそうとしたが、
「実は先程の堀田氏の発言が気になりまして問い合わせたところ、やはり郷原が絡んでいたようでして……」
細井が気になった発言≠ニは変な噂≠フことだろう。さすがは細井だ。やはり、気にしてくれていたらしい。
「それで何とおっしゃっていましたか」
心臓の鼓動が俄かに速くなった。郷原が絡んでいたとなると、これも以前に言っていた準備≠フ現れなのか。
「それがどうも郷原氏からのリークのようです」
細井が言うには、例の代位弁済契約の件を、郷原がT自工にメールで流した。たまたま堀田の部下が見つけたため、大きく広がらずには済んでいるようだが、メールの文中にはネットにも流したとの記述があったようだ。
「あの契約書が……でも、それがなんで変な噂≠ノ?」
代位弁済契約自体はどこにでもある話だ。条文のどこかに素っ裸にして表通りに放り出してやる≠ニ言う文言が記載されている訳ではない。
「そこのところを尋ねたのですが、堀田氏は夕子の耳にも届いているものと思っていたらしく、もし届いていないのなら、とても自分の口からは言えないとおっしゃられて」
「聞いてないわ」
「堀田氏が言うには、同じようなメールが星崎工業所にも届いている筈だと」
夕子はふいに、先日、廊下で会った芦田弘治を思い出した。あの不審な態度の原因が郷原からのメールにあるとしたら得心が行きそうだ。
「芦田君を呼んで頂戴」
夕子は内線電話で指示した。
細井も「呼んで参りましょう」と部屋を出て行く。また、あの子と二人きりになった。
「どう思う?」と夕子。
「まだ、悪あがきしてくれていたんですね」とあの子。
あの子の目にも、そう映っているのか。少しだけ息を吐く夕子だった。
それにしても、郷原は何を企んでいるのだろう。T自工との取引を知っていたことには驚かされたが、それも預手を預かった今となっては、たいした動揺は無い。それも含めて、郷原の計画には何の支障も無いと言いたいのだろうか。
だが、どういう手段が残っているのか。夕子は背筋に冷たい物を感じる同時に、下腹部に軽い違和感を覚えた。
「小切手、隠さなくても良くなるかもね」
夕子は、あの子に振ってみた。
「もう少しだけ、郷原さんに期待しちゃおうっかなぁ」
あの子の場合、本気でそう思っていそうだから怖い。変な噂≠フ正体もわからないが、それがあの子の期待に応えられるものなのかどうかは、もっとわからないと言うのに。
「どんな手段があるというのよ」
夕子は焦れていた。
「ほらほら。社長がまた機嫌良くなって来た。期待して良い証拠ですよ」
「何なの、それ」
「わかっているクセに。このところアンパイが続いていたんで退屈してたんですよ。一番つまらないって思ってたのは社長じゃないですか」
退屈と言う面では否定できない夕子だったが、
「他人事だと思って、言いたい放題ね」
「私以上に、社長のことをわかっている人はいませんよ」
そうかもしれないと思った。それだけに、その前の言葉が、心のどこかに引っ掛かって離れなかった。
◇
細井が芦田弘治を伴って戻って来た。
二人にソファを勧める夕子。社長室に入ること自体初めての経験だったのだろう。弘治の身を堅くする様子は、傍から見ても可哀想な程だった。
「そんな緊張しなくて良いのよ」
とりあえず言ってはみたが、無理もないか。
それでも、聞かない訳にはいかなった。
「芦田君、この間から私を避けているわよね」
「えっ! そ、そ、そんなこと……」
「いいのよ。怒っているんじゃないの。その訳を聞かせて欲しいのよ」
黙り込んでしまう弘治。細井も発言を促すが、そう簡単に話せることではないらしい。それでも、さっきから唇が微妙な動きを見せていた。
(あと一息かしら)
夕子は頭を下げ、下から弘治の顔を覗き込んだ。
「話してくれたら、芦田君の言っていた引き回し=Aさせてあげてもいいわよ」
「ええー!」
「どうかしら。したいんでしょ。引き回し=B全裸で後ろ手に縛り上げるんだっけ。何なら、今からする?」
夕子は上体を起こし、ブラウスのボタンに手を掛けた。
「ちょ、ちょっと、止めてくださいよ。俺はそんな……社長をハダカにするなんて、郷原憲三じゃあるまいし」
弘治の声が大きくなり、夕子と細井が目を見合わせた。
「それよ。その話が聞きたいの」
夕子の一計が功を奏し、弘治が重たい口を開き始めた。
弘治の話では、郷原憲三から星崎工業所の社員ほぼ全員にメールが届いているとのことだった。内容は恐らく堀田のところに届いた物と同じだろう。会社の手形決済を伸ばすために、社長の夕子が個人資産を以って代位弁済契約を結んだ、とそこまでは良いが、問題はその後だ。郷原は、この契約の目的を夕子を丸裸にして会社から追い出すことだ≠ニはっきり文中に書いてあった。
「社長、これは本当のことですか」
弘治の顔には否定して欲しいと書いてあった。
「本当よ。郷原さんは、確かにそう口にしたわ」
「なんでそんな約束を」
食って掛かろうとする弘治に、夕子は「とにかく落ち着いて」と手振りで示しつつ、
「役員しか知らない事実なのに。まさか、リークしてくるなんてね」
夕子は呟く。
「確実に手形を落せる当てが有ったからだよ」
細井が弘治の肩に手を置いた。
「それは本当ですか」
「ああ、本当だとも。星崎工業所は十億くらいのお金でビクともしないさ」
弘治の顔が見るからに緩んだ。真面目に、夕子が丸裸で会社を追い出されるのではないかと心配していたようだ。
「私の方からも聞きたいわ。何でそんなに心配していたのかしら」
星崎工業所は、たった一通のメールで信用を失ってしまうような会社だったのか。
「俺も、いえ、私も最初は信用しなかったんです。でも、この前の飲み会で山野さんたちと社長の話になったんです」
「山野さん……?」
設計課の山野晴夏か。以前、夕子をシメてやると言っていた。夕子の内心に、少しだけ醜い陰が落ちた。
「はい。それが……」
弘治の回想が始まった。飲み会のメンバーは男二人、女三人だったと言う。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「ねえ、郷原って人からのメール見た?」
「見た見た。凄いよね。今時、借金の方に身ぐるみ剥ぐなんてあるんだ」
「社長も可哀想に。ううん、いい気味かな」
「郷原って、ずっと前にこの会社にいた人なんだって。社長の代に変わった時、クビになったそうよ。その時の恨みを晴らしに来たってことみたい」
「そんなこと、どこから仕入れて来るんだよ」
「情報源は秘密でーす」
「どーせネットだろ。信用できるのか」
「さあね。面白ければ、どうでもいいじゃん」
「ネットだったら、もっといろいろ書いてあるわよ。星崎夕子は露出狂とか」
「それ、あたしも見た」
「マジかよ」
「マジマジ。だって有りそうじゃん。あの女社長だよ。晴夏にハダカでロッカー掃除させたのだって、ホントは自分がしたかったんじゃないの」
「うわっ。イヤなこと思い出しちゃった」
「ハダカって、スッポンポンかよ」
「パーカ、下着は着けていたわよ。会社で全裸になれる訳ないでしょ」
「芦田君のエッチ。今、晴夏のヌード、想像したなぁ」
「そ、そ、そんなことねぇよ」
「でも、社長は全裸になるのよね。手形が落とせなかったら」
「ああ。それはガチだな」
「やっぱ、露出狂ってこと」
「まさか。そんな訳ないだろ」
「そうでもないのよ。オレンジロードの花屋さんで聞いたんだけど、二週間くらい前にノーブラ・ミニスカで歩いていた女がいたんだって。サングラスはしていんだけど、それがどうもうちの社長らしいのよ」
「ウッソだろ。社長がノーブラだなんて」
「花屋さんは、間違いないって言ってたわよ」
「それが社長なら、この話もまんざらでもないのかもね」
「この話って、星崎夕子は全裸で会社を追い出されたくて、わざと全財産没収なんて契約を結んだってヤツのこと?」
「きっとそうよ。あの女は露出狂だわ」
「そんな証拠がどこにあるんだよ」
「見せてあげようか。花屋さんが撮っていた写メがあるんだけど」
「マジかよ。見せろよ、そんなのがあるなら」
「いいのかなぁ、そんな態度で」
「ゴメン。謝るから見せてください」
「じゃあ、ちょっとだけよ」
「なんだよ。これって後姿じゃねぇかよ」
「ああ。これじゃあ社長かどうかわからないな」
「だから男はダメなのよ。この靴、社長のお気に入りじゃない」
「それじゃあ、この女、マジで社長……?」
「違うよ。絶対違うって」
「芦田君、社長のファンだったものね。ご愁傷様」
「決め付けてんじゃねぇよ」
「前から気になっていたんだけど、朝礼台にスカートで上がるのは社長だけよね」
「それって、パンツ見せたがってるってこと」
「間違いないわ。社長は露出狂よ」
「じゃあさー、あの噂もホントっこと?」
「社長は、無一文の素っ裸で会社から放り出されたいと望んでいる。そういうプレイがしたくて、色々と企んでいるってことよ」
「そこまで言うかよ」
「だって、あの契約が実行されたらそうなるんでしょ」
「認めちゃいなさいよ。社長は露出狂だって」
「うわぁー、うるせぇ。俺は認めないぞ。絶対に認めねぇ」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
概ね、このような会話だった。
話を聞いている内に、夕子は平静を保っていることが難しくなっていった。女子社員の一部では星崎夕子は露出狂≠ニ言う定義が出来上がっているようだ。
晴夏が根に持っているのは知っていたが、今回の件では噂に尾ひれを付けることで、夕子を困らせようとしているのか。
それにしても、ショッピングモールでの露出を見られていたとは。
いつもの通勤路だ。夕子を知っている人がいてもおかしくはないが、まさか、あの姿で夕子と断定する者がいるとは思いもしなかった。
(写メまで撮られていたなんて)
夕子は、思わず足元に目を落としそうになり、慌てて目を逸らした。
朝礼台の件もそうだ。言われてみれば、夕子以外の女子社員は全員ジャージか作業着に着替えている。スカートのまま上がるのは夕子だけで間違いない。気にしたこともなかったが、このような状況の中では露出狂の証拠とされてしまうようだ。
つまり変な噂≠フ正体は、
――星崎夕子は、無一文の素っ裸で会社から放り出されたいと望んでいる。
と言うことだ。
社内では知らない者はいない。さらに堀田の勤めるT自工にも流れているとは。夕子はまさに穴が有ったら入りたい$S境だった。
細井は黙っていた。恐らく言葉が見つからないのだろう。
「ありがとう。もういいわ」
夕子も、やっとそれだけ口にした。
「それだけじゃないんです。山野さんたちの言っていたサイトにもいろいろ出ていて、それが結構真実味があるって言うか、社長の身近にいる者じゃないと知らないような情報も書かれていて、どんどん心配になってしまったんです」
ダメ押しだった。
これ以上は心臓が持ちそうにない。夕子は立ち上がり、人払いのための手を振った。
細井は素直に立ち上がったが、
「メールには社長についてのアンケートなんかもあって……」
尚も続けようとする弘治に、
「出て行ってと言ったでしょ」
夕子は怒鳴りつけてしまった。役員でなら珍しくもないが、一般社員の前では決して見せない態度だった。すぐに気づき、
「ごめんなさい。今日のところはお願い。出て行って頂戴」
細井に促され、弘治が社長室を出て行く。
デスクに戻った夕子は頭を抱えた。
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