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第17話 自撮り

 一瞬、何のことかわからなかった。
ぜんら≠ニ言う言葉が全裸≠ニ結びつくまでに心臓の鼓動を何度聞いたか。
 だが間違いない。
 真知子は今、夕子は全裸だった≠ニ言ったのだ。
 事故現場は街の外れだと聞いていた。夕子の記憶にある場所も、繁華街の路地から通りに出た場所だった。
 紛れもない野外だ。深夜でも車が通る路上だ。
 夕子は、そんな場所に全裸でいたのか。

《無一文の素っ裸で繁華街に放り出されるのよ》

 例の小説の一文が頭に浮かんだ。
(私、本当に、素っ裸で放り出されていたんだ)
 そうした過去があったからこそ、この文に惹き付けられた。潜在意識が過去を探る手がかりを見つけたのだ。
「間違いない……のですね」
 夕子は、ようやく、それだけ言葉にした。
「間違いないわ。病院に運ばれた時も、夕子ちゃんは細井さんの上着を掛けられただけだったわ。靴も履いていなかったのだけど、携帯電話だけはしっかりと握っていたの」
「ケータイですか」
 夕子の記憶に動きが見えた。何かから逃げている間に、携帯電話で必死に助けを求めていた。街角の光景も、次第にはっきり見えて来た。
 そして、その時の自分の姿が。
「私、誰かに追いかけられていて、父に助けを。隠れながら随分と走って、それから通りに出たところでベンツが」
 夕子の言葉が途切れると、黙って聞いていた真知子が、タブレットの画面を弾きながら、口を挟んだ。
「そうね。あの時も同じように話しているわ」
 夕子には記憶がない。車に乗せられたことも。病院に連れて来られたことも。真知子と話をしたことも。
「私は何でハダカなんかに?」
 当然の疑問だ。わかっていることだけを繋ぎ合わせたら、悪い想像しか浮かんで来ない。どこかで乱暴され、隙を見てハダカのまま逃げ出したが、すぐに気付かれて……
「レイプされた形跡はなかったわ」
 取りあえずホッとはしたが、喜んでばかりもいられない。それならば、なぜハダカだったのかと言うことになる。
 夕子は、真知子の言葉を待った。
「当時の私は大学病院にいたの。救急扱いで運ばれて来た夕子ちゃんに鎮静剤を射って眠らせて、話ができたのは翌日になっていたわ。話してくれた内容は、今、夕子ちゃんが言っていた通り。何でハダカだったのか、まではわからなかった」
 夕子は肩を落とした。
「そうですか」
 一番肝心なことがわからないままなんて。
「でも、ヒントはあったの」
 真知子の言葉で、もう一度背筋を伸ばす夕子。
「携帯電話よ、夕子ちゃんの。悪いけど見させて貰ったわ」
「メールですか」
「ううん、画像の方。驚かないでね。夕子ちゃんのヌードが映っていたの。多分、自撮りの全裸写真がね」
 少なからぬ衝撃が夕子を包んだ。
 自撮りのヌードと言うことは、夕子は繁華街の一角で自ら全裸になり、その姿を写メに撮っていたということになる。
 その場面を誰から見つかり、追いかけられた、と言うことか。
「私、全然覚えていないんです」
 時々、思い出していたのは追いかけられた後のことだけだ。それも断片的に。
「それはそうよ。そういう処置をしたのだもの」
 真知子の得意な催眠療法と言うやつか。
「わかるでしょ」と夕子の顔を覗きこむ真知子。
 言われるまでもない。理由は不明だが、とにかく夕子は全裸で街中にいた。それを誰かに見つかって逃げ出した。服を着る暇はなく、持っていた携帯電話で父親に助けを求めた。そのせいで両親が事故に遭い、他界した。
 その事実を受け止めるだけの心が、当時の夕子にはできていなかった。
 主治医の真知子は、そう判断した。
 細井も同意した。
 その結果が記憶の消去となった。
 夕子が第三者としてその場に立ち会っていたら、同じ判断をしたに違いない。

 ――何よりも先に、社長を連れ出さなければならない理由があったのでございます

 細井が、なぜ、夕子を真っ先に連れ出したのか。
 人が集まって来つつあったのだ。直に警察も来るだろう。マスコミも嗅ぎ付けて来るかもしれない。事故現場に全裸の若い女性がいたら絶好の餌食だ。
 それでなくても、警察には事情聴取されるに違いない。
 職権を以て根掘り葉掘り聞かれることになる。なぜこの場所にいたのか。事故の瞬間は見ているのか。どうして全裸だったのか。それらを避けるためには、夕子がこの場にいなかったことにするしかなかったのだ。
「細井さん、私のハダカ見たって言えなかったんだ」
 夕子の目から熱い物がこぼれた。
 だが、それだけだろうか。細井が夕子を連れ出した理由はわかったが、その事実を口にできなかった理由がそれだけとなると、少し弱い気がした。
「細井さんに感謝しなきゃね」
 もちろん感謝はしている。このことが無くても、今の夕子があるのは、細井のおかげであることは間違いない。どんなに感謝してもしたりないくらいだ。
「記憶の方はどうかしら。他に何か、思い出さない?」
 そう言われて思い出せたら苦労はしない。
「澤井先生の催眠術ってすごいんですね。全然、思い出せません」
「そんなことはないのよ。現実に街中を逃げ回っていたことを思い出したじゃない」
「それはそうですけど」
「催眠術にも有効期限があることは覚えておいたね」
 フラッシュバックというヤツか。
 すべてを思い出すことが良いのか悪いのか。本当の意味での回答は、その時になってみなければわからないのかもしれない。
「そう言えば、美倉先生の診察を受けていたわね」
「はい」と答えた夕子だが、急に心配になった。「美倉先生には、申し訳ないことになってしまいましたでしょうか」
 診断書の件で便宜を図って貰った件もある。夕子は、美倉医師に何の相談もなしに真知子を訪ねてしまったことを後悔していた。
「まあ、それは大丈夫なんだけど、問題なのは診察を受けに来た理由ね」
 星崎夕子は、自分が露出症なのではないかと気になって米倉クリニックを受診した、と記録されていた。
「恥ずかしいです」
 顔見知りには相談できないことだ。守秘義務がある医師だからこそ話せるのだが、夕子にとって真知子は微妙な立ち位置にいた。
「ある程度、自覚はしているってことよね。女性ならよくある話だわ。でも、性に関心のない人間はいないの。夕子ちゃんの場合も、診断結果はその程度。つまり、好奇心は認めるものの病気と判断される程度のものではない、と言うことね」
 美倉医師の診断が電子カルテに書かれているのだろう。診断書も貰っていたが、真知子はその診断に疑問があると言うのだろうか。
「何か問題があるのでしょうか」
「診断結果には何の問題もないわ。現状、夕子ちゃんは普通の女性よ。ただ、過去に催眠治療を施されていると言う事実は消しようがないの。しかも、その効果が薄くなって来ているでしょ」
「フラッシュバックが近いと言うことですか」
「勘違いしないでね。全部思い出したからと言って、夕子ちゃんが今も露出症になるということではないのよ」
(今も……?)
 以前は露出症だったと言う意味か。
 夕子が以前、街の片隅でセルフヌードを撮っていたことは間違いないようだ。覚えていないだけで、同じような行為が日常的に行われていたとしたら、露出症の診断を受けてもおかしくない。
「私って」
 露出症なんですか、と聞こうとしたが、言葉にならなかった。
「夕子ちゃん、誰かに相談したことはあるのかしら」
 そう言えば、今日はずっと夕子ちゃん≠セと思い当った。
「いえ、誰にも……ううん、一人だけ。秘書の女の子に話しています」
「秘書?」
「ええ。生意気ですけど、信用できる子です」
「そうなんだ」
 真知子は少しだけ考え込む様子を見せた後、スマホを取り出してページを捲り出した。
「その子ってもしかして、この子だったりして」
 スマホの画面を見せられた。そこには、ショートヘアーに実用重視のメガネっ子が映っていた。
「そうです。この子です。お知り合いだったのですか」
 驚いたなんてものではない。真知子があの子を知っていたなんて。
「ちょっとね。ふーん、そうなんだ。一度、話をさせて貰おうかしら」
 どういう関係なのか気になるところだが、
「だったら連れて来ますか。その辺で待っている筈ですから」
 あの子と何の話があるのだろうか。
 連れて来ると言っておいて不安になった。あの子のことだ。ショッピングモールをノーブラ・ノーパンで歩いたことなど話してしまうかもしれない。
「そうね。まあ、今日のところは止めておくわ」
 正直、安堵する夕子だった。
「でも、その子には気を付けてね。素人が相談に乗ると、先走りして問題を引き起こす危険もあるのよ。夕子ちゃんなら、大丈夫だとは思うけど」
「はい。わかりました」
 本当にどういう関係なのだろう。
 後で、あの子から聞けば良いか、と思う夕子だった。
「今日はこれくらいにしておきましょうか」
 言いながら、真知子はもう立ち上がっていた。
 急いで夕子も立ち上がり、
「ありがとうございました。十数年前の分も合わせて、お礼を言わせて頂きます」
 身体をくの字に折る夕子。
 そんなのいいのに、と手つきで示す真知子。歩き出そうとして立ち止まり、暫し、間を置いた後、振り返った。
「覚えておいてね。全部を思い出すことはないのだけど、夕子ちゃんにはもう一つだけ、どうしても思い出さなければならないことがあるのよ」
 夕子の目を見つめ続ける真知子。何を言いたいのか、わかる気がした。と言うより、それこそが今日の本題なのだろう。
 間を取った後、真知子は続けた。
「郷原さんって、私の元カレなの」
 週刊誌的な意味で衝撃の告白だった。今まで考えもしなかった夕子だが、それが事実ならば解決する問題もありそうに思えた。
 だが、郷原は夕子のことが好きだったのではないのか。
「いつ頃の話ですか」
 時期によっては二股だった可能性もある。夕子の胸が、少しだけモヤモヤしていた。
「もうずっと昔のことよ。元カレと言うのは正確ではないかもしれないわね。私が一方的に身体を提供していただけで、郷原さんは何とも思っていなかったのかもしれないわ。私から別れる≠チて言い出した時も、ああ、そうか≠チて感じだったし」
 真知子が遠い過去を思い浮かべているように見えた。
「夕子ちゃんがやきもち妬くようなことじゃないわ」
「わ、私はそんなんじゃ……」
 夕子は、胸のモヤモヤを言い当てられたようで頬が熱くなった。
 が、真知子はそれには構わず、
「愛情には、能動的な愛と受動的な愛があるの、知ってるかしら」
「はい……?」曖昧な返事を返す夕子。
「能動的な愛と言うのは、親がわが子に与えるようなものね。この子をプロ野球選手にしたいとか、アイドルにしたいとか。受動的な愛と言うはその逆。子供が何になりたいのか見極めることに終始して見守るだけ。結局、何もしないで終わってしまったりするわ」
 話は分かるが、夕子の中で、その前の話と繋がらなかった。
「郷原さんは、典型的な後者のタイプ」
 意外でしょ、と続ける真知子。
「あの傲慢な郷原さんが、ですか」
「傲慢に見えて、あれでちゃんと計算しているのよ」
「そんなものでしょうか」
「もし郷原さんが梨花の上司だったら、梨花の会社を買い取って梨花に全裸勤務を命じるくらいのことはするでしょうね。口では何と言っても、梨花は深層心理の部分で社内奴隷になることを望んでいるのだから」
(社内奴隷だなんて……)
 俄かには信じられない概念だが、真知子の口から聞くと、そうした愛し方もあるのかもしれないと思えてしまう。
 そう言えば、弘治が似たようなことを言っていた。

 ――夕子を丸裸にして後ろ手に縛り上げ、社内を引き回してやりたい。それを夕子も望んでいる

 真知子の言う梨花の社内奴隷≠ニ弘治の言う夕子の引き回し≠ニは、同じ行為を指しているのだろうか。
 梨花が社内奴隷を望んでいるのと真知子は感じている。それと同じように、弘治もまた、夕子が引き回しを望んでいると感じているのか。

 ――あんたの望みを叶えてやるぜ

 頭を大きく振って思い当る節を追い出す夕子だったが、その胸の奥で何かが騒いでいるのを否定できなかった。
 夕子の所作を診つめる真知子に、
「覚えておきます」
 それが今のところ最も適切な答えだと、夕子には思えた。
「ええ。それがいいわ」
 真知子の目が、口ほどに物を言っていた。

          ◇

「結局、なんで郷原さんが可哀想≠ネのか、わからなかったんですね」
 タクシーの中で、あの子が話しかけて来た。
 それが一番の目的だったのだが、意外な展開ですっかり忘れてしまっていた。まさか、夕子があの事故現場で素っ裸だったなんて、考えもしなかった。真知子があの子を知っていたことも、郷原と交際経験が有ったことも、意外な事実だった。それらを細井は知っていたのだろうか。
「そうね」夕子はあの子に真知子との関係を尋ねようともせず「もう一軒、付き合ってもらうわね」
 そう言って、タクシーの運転手に行先を支持した。
「社長、そこって」
「そうよ。両親が事故に遭った場所よ」
 夕子の表層意識の範囲では一度も訪れた筈のない場所だった。むしろ今まで避けて来た。わざわざ遠回りをしてでも、近づきたくない場所だった。
 タクシーが橋に差し掛かった。窓の外に広がる河川敷を見下ろしながら、夕子は自分に言い聞かせた。
(大丈夫。もう十年以上も前の事件なんだから)
 この橋を渡り切った先の交差点が目的地。つまり両親の事故現場だった。
 夕子は、フロントガラスへと視線を移した。事故の当日、郷原の車もこの橋を渡っていた筈だ。見晴らしいは良い。交差点の向う側には建物が密集しているが、こちらからは何の遮蔽物もない。
 交差点が近づいて来る。
 青信号だった。
 夕子は顔を伏せた。
 タクシーが片側二車線の幹線道路を横切った。
「お客さん、この辺りだと思うんですがね」
 運転手の声で引き戻された。
「えっ。そ、そうね。この辺でいいわ」
 車を降りた時には、交差点から二百メートルは離れていた。
 信号機が遠くに見えた。
 夕子は、その場から逃げ出そうする想いを無理やり押さえつけた。建物の様子は変っていても、間違いない。何度も妄想の中で見た場所だった。
「社長は、こっちから逃げて来たんですよね」
 先に立ち、交差点に向かって歩き出すあの子。「大丈夫ですか」などと気を遣わないところがあの子らしいと言えば、それまでだが。
 センターラインも歩道もある道だ。昼間のこの時間なら通行人の姿も珍しくない。あの子は、数十メートル歩いた所で右折し、路地へと入って行った。
 両側には二階建ての建物が並び、民家と店舗が混在していた。事故現場からはどんどん離れて行く。何となく見覚えのある街角だが、どこに向かっているのだろうか。
 何度となく角を曲がった後、緑の木々が目に入った。
 公園だった。災害時の避難場所なのだろう。それなりの広さを備えていたが、申し訳程度の遊具で遊ぶ子供たちの姿はない。中央の池の噴水も、今は止まったままだった。
 既視感のある光景に、なぜか夕子の足は止まった。
「やっぱり、ここに来たわね」
 聞き覚えのある声に振り向くと、澤野真知子が立っていた。


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