第5話 未来図
自宅に帰った夕子は、女の身体を持て余していた。
おかしな夢を見るのも、郷原のせいだ。あの男の言葉が夕子の耳元から離れない。一字一句違うことなく、念仏のように繰り返していた。
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すべての個人資産と書いてあるだろう。無一文になるだけでは済まさねぇ。その時、あんたが着ている服もすべてだ。下着一枚許さねぇ。素っ裸にして表通りに放り出してやるから、覚悟しておくんだな
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(無一文の素っ裸だなんて)
例の小説の引用かと疑いたくなった。夕子が気になってならないあの一文と同じ内容を郷原が告げた。親の仇と憎んでいた相手が、自分に対して敵意を示した。好戦的な態度で夕子を追い詰めようとしていた。
(全社員の前で全裸にするつもりなのかしら)
先日、ノーブラ・ノーパンで人混みに出ただけで、気を遣ってしまうほどの羞恥に見舞われた夕子だ。普段から顔見知りの人の前で、いつも過ごしている職場で、一糸まとわぬ姿などにされたらどうなってしまうのか。
それだけではない。
家も会社も取り上げられて、無一文で野外に放り出されるのだ。
すべてを無くした丸裸の夕子。
どこへ行けば良いのか。何をすれば良いのか。途方に暮れるばかりで何もできない、何も思いつかないに違いない。
冷たい地面に胸を抱いて蹲る自分の姿が、リアルな映像となって脳裏を支配していた。
破滅
まさにその言葉がふさわしい。
最も忌避すべき言葉とわかっていながら、その状況を思い浮かべた夕子の手は、自然に股間へと誘われていた。
一人寝のベッドに横たわると、服を脱ぐのももどかしく、女の肉の芽を摘まむ。
誰かに止められるのを恐れるかのように、一心不乱に嬲リ付ける。
女の本性を現す声が、喉の奥から吹きこぼれた。
快楽だけを一途に求めた。
会社にいる時から、こうなる予感はあった。
一歩間違えれば現実になるかもしれない未来図に恐れおののきながらも、破滅に追い込まれた自分の姿が瞼の裏側に焼き付けられていた。
確定した未来ではないからか。
今のままなら破滅はあり得ない。そうならないとわかっているから故の余裕なのか。
未来図に何を求めているのか。
夕子の脳内会議は、いつまでも終わりそうになかった。
翌日、星崎工業所では緊急役員会が行われていた。
議題はもちろん、郷原憲三が持ち込んだ十億の手形の対応だ。昨日こそ急なことで狼狽した役員たちだったが、一日明ければ冷静さを取り戻していた。
夕子があの子に話した内容も、参加者全員が理解していた。
特許売却に反対していた役員たちも前言を翻した。事ここに至っては十億の手形を落とすことが最優先。満場一致でT自工への売却が決議された。
「社長が郷原氏の契約書にサインすると言い出した時は驚きましたが、万が一にも代位弁済が実行されることはございませんな」
役員の一人の発言だった。
山吉興業に財務を握られているのは気になるところだが、これと早い時期に解消していく方向で役員会は終わった。
細井を始めとした皆の表情は安堵に満たされていた。
夕子も自分の考えに確信が持てた。それこそ誰かがリークでもしない限り手形は決済できる。星崎工業所は安泰と言う訳だ。
(どうするの? 郷原さん)
社長室に戻った夕子は、仕事をする気になれなかった。
十億の手形の件で二宮産業に連絡すると、社長の二宮雅彦が失踪していた。世間的には海外出張となっているが、その実、手形の件で夕子と星崎工業所に顔向けができないというのが本音だと、留守を預かる役員の一人が言っていた。
二宮産業としても、また苦しい選択だったのだろう。夕子にも他人事には思えなかったが、二宮産業の方は手形を割り引いて貰ったことで窮地を脱したと言う。せめてもの救いと思うようにした。
気分を入れ替えようとする夕子。
タブレットを手に取ると、ノーブラ・ノーパンで街を歩いたと言う女性の投稿が表示されたままになっていた。
――Y子さんって破滅願望があるんですね
投稿の中のA子の言葉だった。
Y子は電車の中で痴漢に遭い全裸にされたい、メチャクチャにされたいと願う女の子だ。それが現実になったら、A子の言う通り破滅するしかない。
「またやりましょうね」と言っていたA子。
投稿されたのは二週間以上前の日付になっていた。この続きが更新されることはあるのだろうか。
「このY子さんって素質ありますよね」
いつの間にか、あの子がタブレットを覗き込んでいた。
「何の素質よ」
「露出っこですよ。そういうサイトでしょ」
野外露出をテーマにしたサイトには違いない。ハダカになって外に出ることに興味を持った女性たちが集う場所となっていた。
「若い女の子がこんなことするなんて、信じられないわね」
正直な感想を口にした夕子だったが、その一方で、どこか惹きつけられるものを感じていた。
「A子さんにメールしたいところですね。もっと頑張ってって」
あの子の口からは昨日も同じ言葉を聞いたばかりだ。
「応援するのが好きなのね」
「それはそうですよ。Y子さんをもっともっと恥ずかしい目に遭わせてあげたいじゃないですか」
「迷惑なんじゃ」
「そんなことないですよ。Y子さんだって望んでいるんですから」
「ねぇ、社長」と夕子の顔を覗き込むあの子。
「わ、私は別に……」
あの子の視線から逃げる夕子。あの子はA子を郷原に見立て、Y子を夕子に見立てているのだろう。迂闊な返事はできない。
「何か勘違いしていませんか?」
あの子が上体を起こした。
「へぇ?」
夕子は、我ながら間の抜けた返事になってしまったと恥じる。
「A子さんにはメールできないからぁ、社長にY子さんになって貰って、私がA子さんの代わりをすると言うのはどうですか」
「そっちのこと?」
より現実的な話だったらしい。
「そっちって、社長はどっちの話をしていたんですか。あれぇー、もしかして、もっとエッチな話とか」
あの子には敵わない。
「で、でも今日はダメよ。大事な打合せがあるんだから」
午後からT自工の堀田とアポイントを取っていた。今日中に特許売買契約の調印を済ませてしまう予定だった。
細井と二人でT自工を訪ねた夕子。堀田は夕子に会えることを手放しで喜んでいた。
T自工側も話ができていた。
売買契約書の内容は、お互い、事前に確認していたから、すぐに調印となった。二枚に契約書にそれぞれの署名と捺印を終え、交換。そしてまた署名・捺印。
終わってみるとあっけなかった。
たったこれだけのことに、どれだけ悩み、時間を費やして来たことか。
決断したきっかけは、昨日の郷原だ。そうした意味では、夕子および星崎製作所は郷原に感謝しなければならないのかもしれない。
「支払いは振込になりますか」
細井の質問に、倉田はおどけて答えた。
「契約さえしてしまえば、お支払はどんな形でも良いですよ。二十億を現金となると、ちょっと考えますけどね」
これだけの大金である。振込が通例なのだろうが、
「預手でお願いできますか」
夕子だった。
「構いませんが……」
「特許書類との引き換えですから」
同時履行の原則に従うなら預金小切手が適しているのは間違いない。が、それは通常T自工側が主張すること、むしろ振込を希望するところだろうが。
「それでは預手ということで。期日までにそちらにお持ち致します」
と下げた頭を、倉田はすぐに持ち上げる。
「いやぁ、これで肩の荷が下りました。星崎社長、良い取引をさせて頂きました」
「それはこちらのセリフですわ」
倉田が差し出した手を、夕子は躊躇することなく握り返した。
調印が終わると、少し早いが、夕子はその日の仕事を切り上げた。一連の大仕事で心身ともに困憊していた。こういう時、後を任せられる細井の存在は大きかった。
自宅に戻った夕子は、今日はもう考えるのを止めようと決めた。
お風呂に入り、全身を入念に洗い、ボディケアを施した上でリビングのソファに身体を投げ出す。どれだけ時間を掛けても、今日と言う日はまだたっぷりと残っていた。
「こんなことなら、会社で仕事をしていた方が良かったかしら」
冷たいドリンクを口にしながら、誰にともなく呟いた。
テーブルの上に置いた仕事用の鞄に目を落とす。
今日は何も考えないと決めた筈なのに無駄だった。鞄の中から、ついさっき調印したばかりの売買契約書を取り出す。
売主・星崎工業所は買主・T自工に水素吸蔵合金の新技術に関する特許を売り渡す。
ただそれだけの内容だ。
両社の社名と印鑑がしっかりと押印されていた。
代金の支払い期日は、手形決済の一週間以上前。堀田が肩の荷を下ろしていたように、これで取引は成立。郷原が持って来た十億の手形が不渡りになることはない。
役員会でも、専務の細井とも、何度となく確認して来た事項だ。会社が倒産する憂いも、夕子が無一文になる憂いもなくなった。
すべてがうまくいっている筈なのに、なぜだろう。夕子は何かが引っかかっていた。
――素っ裸にして表通りに放り出してやる
(あんなに大仰な宣言しておいて、郷原さんたら何をやっているのかしら)
明日、この売買契約書を見せたら、あの子は残念がるに違いない。「これで社長が素っ裸で追い出されるところが見られなくなった」と。
「あなたがリークしないからじゃない」と言ってやろうか。
「今からでも間に合うかもよ」と言ってやったら、その場で夕子のデスクの受話器を取り、郷原に電話を掛けるだろうか。
(私ったら、何を考えているのかしら)
本当に何を考えているのか。
これで良い。これで未来図は確定した。そう自分に言い聞かせる夕子だったが、ふと見ると、テーブルの上に一枚の名刺がこぼれ落ちていた。
「山吉興業株式会社 代表取締役 郷原憲三」と記された名刺が。
手に取った夕子はスマホを取り出し、名刺に書かれた携帯番号をプッシュし始めた。
(何をしているの)
(郷原さんに電話を掛けて、何を話すつもりなの)
その答えが得られる前に、電話は繋がった。
『まさか、あんたから電話を貰えるとはな』
郷原の携帯にも、夕子のナンバーが登録されていたのだろう。何も言っていないのに、電話の主が夕子だと悟られてしまったようだ。
「星崎です」
『ああ、わかってるよ。代位弁済の件だろう』
「えっ、ええ」夕子は思い当たった。郷原に電話する用事なんて、それしかないのだから。
「郷原さん。どういうつもりですか。昨日のあれは」
何とか詰問の形を整えられたことに、夕子はとりあえず安堵した。
『なんだ。やはりその件か。年甲斐もなくドキドキしてしまったぜ。何たって一度はプロポーズした相手だからな』
その話ができる可能性は皆無だった。少なくとも夕子の方からは。
「悪かったわね。そんな色気のある話じゃなくて」
『いいってことよ。あんたからみれば、俺は親の仇なんだろう』
郷原の口から『親の仇』と言うセリフが出たことに、夕子は驚きを隠せなかったが、
「その話はまたにしましょう。今日はあなたの真意を聞きたいの」
話の流れではあったが、それは間違いなく確かめておきたいことだった。
『言ったろう。俺の目的はあんたを無一文の素っ裸にして会社から放り出すことだってな』
またそのフレーズだ。夕子の弱点を心得ているのか。
「そのために十億の手形をふいにすると言うの」
『ああ、その通りだ。喜ぶんだな。あんたにはそれだけの価値があるってことさ』
「私に価値が」
『そうだ。あんたの羞恥にのたうちまわり姿が待ち遠しいぜ』
「狂ってるわ」
夕子は郷原を、心底、気味が悪いと感じ始めていた。
『それで、覚悟はできたのか』
「残念だったわね。あなたの希望は叶えられないわ」
『それじゃあ会社を潰すのか。まだ、俺の奴隷秘書になるという手も残っているが』
自信満々の様子だ。郷原は、金策が付いた可能性を考えていないらしい。
「悪いけど、どれもノーね。手形はきちんと落とすわ」
『落せるのか』との問いに、
「もちろんよ」
そう言って電話を切ろうとした夕子だったが、郷原が意外なことを言い出した。
『俺がなんで、あんたにプロポーズしたか、わかるか』
プロポーズと手形、何の関係があると言うのか。
「そんなの、星崎工業所の次期社長を狙っていたからじゃない」
『否定はしないが、それ以上に俺はあんたのことを理解していたからなんだぜ』
その声には、十数年前に聞いたやさしい響きが含まれていた。自ら異常性癖を持つと宣言し、爬虫類のような目で夕子を見ていた郷原だ。それでいて、それだけではない何かを感じさせていたのも間違いない。
「今さら何を」
『俺の性癖は話したよな。一緒にビデオも見た。俺がドSで、あんたがドM。俺たちは限りなく相性の良い夫婦になる筈だったんだ』
「私がドM? ビデオって……」
夕子は記憶を辿り、思い出した。郷原に連れられ、小さなビデオカフェで初めてポルノ映画なるものを見せられた時のことを。
ヒロインは深窓の若奥様だったが、夫の死で没落し立場が逆転、使用人たちに奴隷のような扱いを受ける。最後は財産をすべて奪われ、丸裸で戸外に放り出され、閉ざされた門の前で泣き崩れる。
『思い出したか』
両親の事故の後、強い意志を持って封印して来た記憶だ。あの時、間違いなく、夕子は自分の身を若奥様に置き換えて気を遣った。
「覚えてないわ」
自分の答えに白々しさを覚える夕子だった。
『正直になれよ。あんたは正真正銘のドMだ。こればかりは、いくら歳を取っても変わるものじゃない』
夕子は自分の性癖に疑問を持ち続けて来た。知っているのはあの子だけの筈だった。まさか、あの頃から郷原が気づいていたなんて。
「今は関係ないじゃない。手形を落とせば良いだけのことでしょ」
『あんた、それでいいのかい』
「何が言いたいの」
『俺はあんたの願いを叶えてやろうと言っているんだぜ』
夕子が、あの映画のヒロインのように、無一文の素っ裸で放り出されることを願っていると言うのか。
「バカバカしい。そんな女がいる訳ないでしょ」
『普通の女ならな』
夕子がまるで普通ではないような言い回しに、どこかがプチっと切れた。
「あなたなんか何もできないくせに。そこまで言うなら、あなたの手で実行させてごらんなさいよ。あの公序良俗に反した代位弁済契約をね」
『もちろん、そのつもりだが』
「あなただって星崎工業所の特許の資料は持っているでしょ。調べてみるといいわ。十億なんて作るの、そう難しいことではないのだから」
『おいおい、いいのかい。社長自らリークなんかしてしまって』
言ってしまってからハッとなった夕子だったが、すでに止まらなかった。
「こんなのリークでも何でもないわ。もう遅いの。あなたには何もできないわ。本当に詰めが甘いんだから。あの婚約指輪だって」
夕子は口を噤んだ。指輪の話はするつもりがなかったのにと後悔した。
だが郷原は、暫し黙り込んだ。
負けを認めたのか。いや、そんな簡単なタマではない筈だ。
『婚約指輪か。送り返された時はショックだったかな。ある程度は予想もしていたんだが、まさか宅配便で戻って来るとは思っていなかったよ』
「あ、あの時は……」
『あの事故がなければ何度でも贈るつもりだったんだ。わかっていたんだ。あんたみたいな女は時間がかかるってな』郷原は一度、言葉を切り『それにしても、詰めが甘いと言われたのは、公私ともに初めてだぜ』
郷原は、そこまで夕子を見ていたのか。
あの事故がなく、何度も指輪を送り続けられていたら、夕子は早晩、郷原の腕に抱かれていたかもしれない。
「郷原さん……」
トーンの下がった夕子。
『俺はやると言ったらやる男だ。甘く見て貰っては困る。今回の件だって、まだいくらでも方法はあるが、まあ、特許の件は何もしないでおいてやるよ。久しぶりにあんたと話ができて気分が良いからな』
(まだ方法がある……?)
含みのある言い方が気になったが、それより、
「でも、特許の件をスルーしたら、手形は間違いなく決済されてしまうわ。それでいいの。しっかりしなさいよ」
夕子は何を言っているのか。
これではまるで、夕子自身が手形の決済を嫌がっているようではないか。
『嬉しいねぇ。俺を応援してくれるのか』
「そんなわけ……ううん、そんなことより、公序良俗に反した契約は無効なの。女性をハダカにして外に出すなんて履行できる訳ないわ」
夕子の最期の砦だった。
『まるで、何とかしてって言ってるみたいだぜ』
「何のことよ」
『俺はこのままでも目的を果たせると思っているんだが、まあ、少し動いてみるか。心配して電話をくれたあんたの期待に応えてな』
それを最後に通話が切れた。
(私が何を期待していると言うのよ)
荒くなった息を整えながら、夕子はスマホを握る手を睨み続けた。
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