第4話 詰め
あの子に起こされた。
夕子は社長室のデスクに顔を伏せ、眠ってしまったらしい。
寝起きの頭が、寝る前に何をしていたのか思い出そうとするが、何も浮かんで来ない。テスクの上にはヒントになりそうな書類もない。
(私……何をしていたのかしら)
気が付くと、あの子が夕子を見ていた。
「かわいそうな社長。夕べは眠れなかったんですね」
あの子の目尻を押さえる仕草を見るのは初めてだった。
今は何時なのか。
窓の外は日が高かった。もうすぐお昼だろうか。
「さあ、社長。最後のお勤めに参りましょう」
あの子に手首を掴まれ、クローゼットへと引っ張って行かれた。
最後のお勤め……?
夕子には何も思い当たらなかった。
今日は何の日で、自分はこれからどんな仕事をすることになっているのか。
「全部、脱いでくださいね」
あの子に命令された。
そうか。また下着なしで出かけるらしい。
少しだけホッとした気持ちになった。
今日はどこへ。
下着まで脱いで、あの子が選んでくれる服を待つ。
「いつまで、こんな格好をさせておくの」
まるでデジャブーだ。
できれば、今日は繁華街を避けたいところだが、あの子が許してくれるかどうか。
「さあ、行きますよ」
あの子にまた手首を掴まれた。
夕子は何も着ていない。
あの子も手に何も持っていない。
「着替えるんじゃなかったの」
夕子は問うた。
「ごめんなさい」
あの子が両手で顔を押さえた。
「とうしたの」と夕子。あの子は顔から手を離すことなく、
「ごめんなさい。社長が着る服は、もうここにはありません。いえ、ここだけじゃありません。世界中、どこにも無いんです」
「そんな、まさか……」
「そうです。この会社も、ご自宅も、衣類も、下着まで全部、郷原さんに取られてしまいました。社長はもうずっとハダカでいるしかないんです」
どうなっているのか。
確かにそういう契約をした。
郷原の持ち込んだ十億の手形。それを期日に落せなかったら、夕子の持つ全財産を持って弁済すると。
その期日が来てしまったと言うのか。
特許はどうなったのか。
T自工に売却して手形を落とすだけの資金を確保したのではなかったのか。
一体どうなっているの。
その疑問に応えることなく、あの子が夕子の手を曳いた。
「皆さんがお待ちです」
手を曳いて歩き出した。
二歩三歩と歩み出してしまう夕子。身体がクローゼットから社長室へと出た。
あの子と二人きりとは言え、社長室で全裸になったことはない。
「ちょっと待って。こんな格好ではどこにも行けないわ」
夕子は足を突っ張る。
「ダメですよ。ここはもう社長の会社じゃないです。ここから追い出されるんです」
「そんな無理よ。ハダカで外になんか出られない」
「ぐずぐずしていると男の人を呼ばなければならなくなりますよ」
あの子の言葉が強くなった。
逆らうことはできないのか。これが夕子の運命なのか。あの子の力が強くなり、夕子は社長室の出口へと導かれる。
ドアが開いた。
全裸のまま廊下に押し出される夕子。
目の前に立っていたのは郷原憲三、その人だった。
「やあ、星崎社長。初めて拝見させて頂きました。夢にまで見たあなたのヌード。思っていた通りお美しい」
賛美の言葉も夕子の羞恥心を煽るだけだ。
郷原の後ろには、細井を始め、星崎工業所の全社員が集まっていた。夕子の姿を見て口々に憐みの言葉を漏らす。
「さあ、約束通り、ここから出て行って貰おうか」
郷原の目が爬虫類のそれに変わり、夕子の肌を舐めまわす。
奴隷秘書の二人に両側から二の腕を掴まれ、会社の玄関へと引き立てられる。
そしてとうとう夕子は、日の光の下へ放り出された。
身体に一片の布も着けない文字通りの丸裸で。
「星崎夕子を無一文の素っ裸で表に放り出してやったぜ」
郷原の高笑いが聞こえた。
玄関前に蹲り、両肩を抱いて身悶える夕子。
家も無く、お金も無く、衣服も無い。こんな姿でどこへ行けと言うのか。
そんな夕子の耳元であの子の声がした。
「念願が叶って良かったですね」
「………………」
「…………」
「……」
夕子は目を覚ました。
社長室の自分のデスクだった。置時計のデジタル表示に目を向けた。郷原が帰ってから五分と経っていなかった。
(今のは何だったの?)
ほんの短い間に夢を見ていたのか。
「大変なことになりましたね。社長もいよいよ素っ裸ですか」
嬉しそうに笑うあの子。
現実に引き戻された夕子だが、こんな時、あの子の能天気は救いだった。
「大変だなんて、思ってもいないくせに」
「そんなことありませんけど……なってみたいんでしょ。素っ裸」
たった今、夢で見た映像が甦る。
頭を振り、冷静さを取り戻していく夕子。
「まだ、決まった訳ではないわ」
決まっていないどころか、確率的には殆ど無いに等しいだろう。だからこそ細井も何も言わなかったに違いない。水素吸蔵合金の新技術がある限り、星崎工業所は安泰。夕子が追い出される可能性は皆無だ。
「そうなんですか」とあの子。
夕子の素っ裸は確定事項のような言い方だった。
「あの男ったら、詰めが甘いんだもの」
郷原は本当にT自工との特許売買の件を知らないのだろうか。代位弁済契約書まで用意して準備万端乗り込んで来たくらいだ。知っていたなら、何らかの妨害工作を仕掛けて来ても良さそうなものだ。
「何だか残念そうですね」
そんな響きがあったのだろうか。
「冗談じゃないわ。なんで私が素っ裸で放り出されなければならないのよ」
「たって……」
「それともあなたは会社が倒産した方が良いと言うの」
夕子はあの子に食って掛かった。
「そうじゃないけど……郷原さんって、星崎工業所を潰す気なんてないんですよね」
言われてみればその通りだ。倒産させたいなら、何も言わずに手形を取り立てに回せば済むことだ。
「潰したら損だって、わかっているのよ」
独り言のように呟く夕子。
「難しいことはわからないんですが、要は社長に言うことを聞かせたくて首輪だの契約書だのを持ち出して来たんでしょ」
言いにくいことをズバリと言うあの子だった。
「そ、そうね」
「だったら何で一か月も待つんでしょうか。一週間とかでも良い筈なのに」
あの子の言うことにも一理あるが、
「どうせ十億なんて払えないと思っているんでしょ」
「払えないんですか」
社員からしてみたら気になるところだろう。
「大丈夫よ。どんなことしたって、会社を倒産させたりなんかしないから」
自分に言い聞かせているようだ。
夕子もこれだけは決意していた。たとえ郷原の奴隷秘書になろうとも、星崎工業所だけは絶対に残すと。
「そのために社長が犠牲になるんですか」
そういう解釈になるのか。
「犠牲になんかならないわ」
「でも、あの郷原さんって、かなりのやり手なんですよね」
夕子もそう思っていたのだが、
「そうでもないかもね。今回の代位弁済契約書だって穴だらけだもの」
決済時における夕子の所有物を持って代弁するとだけ記された契約書だ。決済時前に買戻し条件付きで資産を売却してしまえば、郷原は取れるものがない。夕子の自宅も、会社の乗っ取りもできないことになる。
「ちょっと待ってください。郷原さんは、社長の個人資産も会社の株式もついでのことだと言っていましたよね。狙いは社長を無一文の素っ裸にして追い出すことだって。それが本当なら、手形なんか放っておいて、代位弁済契約にこだわるんじゃ……」
――素っ裸にして表通りに放り出してやる
郷原の声が甦った。
あの男ならやるに違いない。その時、夕子が身に着けていた衣服を引き剥がし、公衆の面前で丸裸の晒し者にするだろう。
だが、夕子一人を破滅させるために、果たして十億の金を捨てるだろうか。
それはそれで、とても現実的な有り様とは思えない。諦めて手形を取り立てに回すようなら、その時には特許の売買代金が入金されているだろうから、普通に落せば良いだけだ。
そう説明してやると、あの子は「うーん」と腕を組んだ。
「社長が郷原さんだったら、何か手があるんですか」
それも考えた。夕子が郷原の立場だったら、
「まず、代位弁済契約書に詐害行為の禁止条項を付けるわ」
それで資産の売却は契約違反になる。
「でも、手形が普通に落ちたら、郷原さんは何もできないんですよね」
そう。何もできない。
だからこそ、この契約書にサインしたのだ。
「ちょっと強引なやり方だけど、私だったら星崎工業所を特許権侵害で訴えるわ」
「そんなことしたって、郷原さんが敗訴するだけですよ……ね」
言ってはみたものの、あまり自信はないようだ。
「判決までいかないわ。時間が稼げれば良いのだもの。水素吸蔵合金の特許に仮差押えを掛けて、手形の期日まで売却できないようにすれば郷原さんの勝ちなの。こっちは他に資金調達の手段がないわ」
あの子は少し考える様子を見せたが、
「それって、マジでヤバいんじゃ……」
「結構なハードルだけどね。可能性がない訳ではないわ」
「回避する方法はあるんですか」
「T自工との相談になるけど、特許が下りた日の内に売買を、つまり金銭の受け渡しを完了してしまえば、取りあえずOKなんだけどね。相手のあることだから」
何らかの事情でT自工の決済が下りなければアウト、と言う場合もあり得る。
「でもそれって全部、郷原さんが特許出願中とか、知っていればの話ですよね」
それもそうだが、
「資本提携をしている山吉興業とは特許の情報も共有しているわ」
社長に就任した郷原が知っていてもおかしくはない。
だが、特許出願の事実は知っていても、売買の話までは聞いていない筈だ。まして売却先がわからなければ、郷原も手の打ちようがないのではないか。
「ふーん。なんか残念」
この反応をどう解釈したら良いのか。
「何が残念なのよ」
「だって、社長が素っ裸で追い出されるところ、見てみたいじゃないですか」
本人を目の前にして臆面もなく言ってのけた。
「もう、他人事だと思って」
夕子は軽く睨みつけた。
あの子は「えへっ」と舌を出した後、とんでもないことを言い出した。
「そうだ、社長。私がリークするというのはどうですか」
「リークって何を?」
「水素ナントカの特許ですよぉ。T自工に売る前に差し押さえちゃってくださいって」
夕子の胸が、一つ大きく撥ねた。
あの子ならやりかねない。もし本当にリークされたら、夕子の運命は決まってしまう。一ヶ月後、全裸でここから追い出される未来が確定するのだ。
「ちょっと真面目に勘弁してよね。そんなしたら、あなたのこと、一生恨むからね」
夕子の血相が変わっていたのかもしれない。
「ヤダっ。マジにならないでくださいよぉ」
夕子もそこで初めて、あの子のいつもの煽りだと気づいた。いくらなんでも夕子にトドメを刺すようなマネはしないか。
「リークがダメなら、やっぱ郷原に頑張って貰うしかないですねぇ。マジでやりようがないって訳じゃないんだから」
言っている側からこれだ。
「あなた、どっちの味方なの」
郷原が頑張れば、それだけ夕子が窮地に追い込まれることになる。
――社長が素っ裸で追い出されるところ、見てみたいじゃないですか
案外、本気でそう思っているのではないかと思えて来た。
郷原にしたところで、秘書を訪問先の会社で全裸にするくらいだ。夕子が手も足も出ないような方法で追い込みを掛けてくるのではないかと怖れもしたが、
「それにねぇ、法律では公序良俗に反した契約は無効≠ニ定められているのよ。女をハダカにして外に出す契約なんて、通る訳がないわ」
郷原だって、わかっている筈だ。
「そうなんですか。つまらないの」
手形云々の話ではない。こればかりはどうしようもないだろう。
十数年前もそうだった。手渡された婚約指輪に何の感情も抱かなかったとでも思っているのか。もっと時間を掛けて口説かれていたら、あるいは爬虫類を好きになっていたかもしれないと言うのに。
(ホント。詰めが甘いんだから)
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