第22話 解放
何が何だかわからなかった。
代位弁済契約書が、どうして《契約自由化法》に基づくものになっているのか。
同法の存在を知った時、夕子はその適用を受けないようにと心を配った。米倉クリニックで診察を受け、診断書を発行した貰ったのもそのためだ。公序良俗に反する行為は無効と言う最後の砦を守るだった。
それなのに、どうして来栖マリナなのか。どうして澤田真知子なのか。この二人は味方ではなかったのか。
夕子の中での焦燥感は並大抵のものではなかった。
「これはどういう……」
代位弁済契約書と郷原の顔を交互に見つめる夕子。
「よく読んでみるんだな」
郷原が、契約書を顎で示した。表題が露出奴隷契約書に替わっている訳ではなかったが、特記事項以降の部分を目で追うと、
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【特記事項】本契約におけるすべての個人資産≠ニは、本契約実行時における乙・星崎夕子の着衣を含めたすべての所有物を指す。また甲は、本契約実行の際、乙がすべての個人資産を引き渡した後に、乙を星崎工業所の敷地内から放逐することを宣言し、乙はこれを承諾した。
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(そんなバカな……)
これでは郷原の言う通り、保護も逮捕もされないことになる。昨日のマリナは一体、何を任されていったのか。
「すみません。遅くなりました」
ノックの音と同時に、マリナが飛び込んで来た。その後ろには真知子も続いていた。
案内して来た事務員が会議室のドアを閉めた。
夕子は、待ち構えていたように席を飛び出し、マリナに言い寄った。
「これはどういうことですか」
不意を突かれたマリナは、きょとんとした顔になって、
「どうって、昨日、お聞きしたままですけど、何か不都合がありました?」
言っていることは間違いない。間違ってはいないが、
「これでは、私はどうなってしまうのですか」
マリナに飛びつかんばかりの夕子を真知子が止めた。
「夕子ちゃん、しっかりして」
振り向く夕子。真知子と顔を合わせた。「落ち着いて」と夕子の二の腕を掴む両手に力が籠められた。
「澤田先生……先生もです。どうして承認なんか」
したのですかと、尋ねようとしたが、
「取り敢えず落ち着きましょう。話はそれから」
真知子にそう言われ、細井に促されて夕子は自分の席に戻った。真知子とマリナは、夕子の対面、つまり、郷原側の席に着いた。
「改めまして、郷原コーポレーション・顧問弁護士の来栖マリナです」
座った直後に立ち上がり、挨拶をするマリナ。
マリナが郷原の顧問弁護士……だったら真知子は?
「ごめんね、夕子ちゃん。実は私もなの」
真知子が言うには、夕子の自宅に折り込み広告を入れ、米倉クリニックに来るように仕向けたのだと言う。広告のQRコードには、患者は夕子でも依頼者の名は郷原であることが記されていたのだと説明を受けた。
「状況がわかったところで来栖先生、この代位弁済契約書がどうなっているのか、先生の口から説明してやって貰えますか」
冗談じゃない。状況なんてわかってたまるか。
昨日、マリナの訪問を受けた時、味方だと思えばこそ事実を事実として話した。敵対する相手ならば絶対に秘匿しておくべき事柄も包み隠さず話してしまった。それが何を意味するのか。
真知子は真知子で、夕子の他人に知られたくない事実を、さらには夕子も知らない事実までカルテに留めている。戦うべき相手ではない。いや、戦ってはならない相手だった。
夕子の心中を無視して、マリナの説明が始まった。
「本件のおける代位弁済契約書は、手形債権の担保として差し入れられた物です。手形の決済ができない時は星崎社長の全個人資産を以て代位弁済すると定められていますが、その趣旨は債権の保全ではなく、郷原氏による星崎社長への復讐である旨はここにいる人たち全員の知るところとなっています。間違いありませんね」
マリナは夕子の目を見つめた。
「はい。ですが、この特記事項は明らかに加筆です。有効とは思えません」
反撃を試みる夕子だったが、
「加筆したのは《契約自由化法》に関わる部分だけですよ」
郷原がマリナに契約書を見せた時点で、すでに加筆されていたと言うことか。
「私が署名・捺印した時点では、間違いなく記載されていませんでした。《契約自由化法》の適用にしたところで、私は合意していません。当事者双方の合意がないのに適用が受けられるものなのですか」
法律の専門家相手にどこまで主張できるかわからない。が、夕子の知り得る限りでも、この二点はおかしいと思えた。
「この契約書は、すでに法的な体裁を整えています」
マリナは涼しい顔だった。
「だからそれは」間違いなのだと言いたかったのだが、
「加筆を証明できますか」
この代位弁済契約書は郷原が事前に用意してあった物であり、夕子が一方的に差し入れた形になっていた。コピーも取っていない。
「それは……」
「一度出来上がった物を否定するのは、それにたる事実が必要です。特記事項の内容は昨日の聞き取りでも確認させて頂いておりますしICレコーダーにも保存されています。社内でも噂になっているようではないですか。星崎社長は、無一文の素っ裸で会社から放り出されることを望んでいる、と」
マリナは平然とした口調で素っ裸≠ニ言う言葉を使った。
弘治が言っていたのはこのことか。それにしても、郷原のリークによってできた噂を、こうした形で利用するとは。
「だとしても、《契約自由化法》の件はどうにもなりませんよ。来栖さん、弁護士のあなたが違法行為に加担するのですか」
契約の締結時において、同法の話は全く出ていない。書面が一枚しかないのを良いことに、郷原とマリナたちが捏造したことは明らかだ。
「心外です。多少、強引なところはありましたが、私は、私の信念に従い、この契約書に確認のサインをしました。星崎さんも望んでおられると思っておりました」
マリナもそれを言うのか。
「本気でおっしゃっているのですか」
夕子は、声を殺すのに苦労した。夕子の、女としての一生が懸っていると言っても過言ではないのに、表情一つ変えず淡々と話すマリナに怒りを覚えた。
「本気ですよ。星崎さんのレポートにも書いてあったではないですか」
露出症の女性なら公の場に裸体を晒す苦痛も残虐な罰には当たらない、とする説を指しているのだろう。一歩進んで、夕子はそれを望んでいるからこそレポートも書いたし、郷原との間に代位弁済契約も結んだ。マリナはそう解釈しているようだ。
「それは来栖さんの解釈で……」
夕子が言葉を続けられないでいると、
「私だけの解釈ではありませんよ」
マリナは真知子を見ていた。
「まさか、澤井先生まで」
黙って聞いていた真知子が、おもむろに顔を上げた。
「星崎さんの《契約自由化法》に関するレポートは、私も読ませて頂きました。心療内科医としての見解は来栖先生と同じ、と言うより、私の方がより深刻に受け止めているわ。残念だけど、今回の措置は間違っていない。ううん、必要なことなのよ」
以前は夕子の主治医でもあった真知子の見解だ。夕子の露出症については誰よりも詳しいに違いない。その真知子がより深刻に≠ニ言う。
――星崎さんも望んでおられると思っておりました
「それを納得しろと言うのですか。納得してハダカになれと」
夕子はテーブルに手を付き、身を乗り出して真知子に迫った。
「私にも守秘義務があるの。これ以上は勘弁して」
守秘義務と言われて、夕子は気づいた。これ以上の説明をしようとすれば、夕子が知られたくないと思っている事実を公表しなれればならなくなる。細井以外の役員が知らない事実を。もしかしたら、細井も知らない事実すらあるのかもしれない。
「でも、澤井先生がご存じなのは十年以上前の私です。それがどれだけ参考になるとおっしゃるのですか。現実に美倉先生の診断では、その……何も問題ありませんでしたし、診断書も頂いています」
夕子の切り札だった。
「美倉先生の診断は、催眠治療が施された状態の星崎さんを診察した結果です」
あくまで仮の状態だと言いたいのか。
「催眠が解けたからと言って、治療を受ける前の状態に戻るとは限らないとも説明を受けています。不確定な推測ではないでしょうか」
夕子は内心「しめた」と思った。夕子はまだ催眠状態にあると真知子自身が言ったばかりだ。解けたらどうなるか、誰にも確定したことは言えない。
真知子は少し迷う様子を見せていたが、バッグからスマホを取り出すと、
「最近の星崎さんについては、この人から情報を得ているわ」
スマホの画面を夕子に見せた。そこには、いつかと同じ、あの子の顔が映し出されていた。
夕子は上体を折り、太ももに肘を付いた。
(何てことなの!)
真知子があの子と顔見知りなのは知っていた。だが、まさか、あの子が真知子と内通していたなんて、思ってもみなかった。
あれは、夕子が社長室のデスクで、初めて例の小説を読んだ日のことだった。
《無一文の素っ裸で繁華街に放り出されるのよ》
異常なほど興奮を覚えた夕子は、我を忘れ自慰行為に耽ってしまった。自分でも気づかない内に衣服を脱ぎ、丸裸になっていた。その姿をあの子に見つかってしまい、それ以来、あの子に命令される立場となった。
悪いことはばかりではなかった。夕子は、あの子の前だけでは正直になれた。自分の露出癖について話すことができた。相談に乗って貰ったこともある。夕子の性癖の一部始終を、あの子は知っていると言っても過言ではなかった。
――大事な場面ではいい仕事をしてみせますから
こういう意味だったのか。
あの子から話を聞いていたのではどうしようもない。裁判にでもなれば、あの子が郷原側の証言台に立つのだろう。
床に視線を落としたまま、身動き一つできなくなった夕子。
「そういうことだから、悪く思わないでね」
真知子の優しさとも、哀れみとも取れる言葉だった。
さらにマリナが、
「星崎社長は、預手の取り立てに伴うリスクを理解していた上で、取り立ての日時を郷原氏に知らせたのですから、その時点で、ハダカで追い出される覚悟はあったものと推定されますが、反証はありますか」
いかにも弁護士らしい言い回しだった。推定されたものは反証を上げれば否定できる。だが、上げなければ事実として確定してしまう、と言う意味だろう。
「反証も何も、女がそんなことを望む訳ないでしょう」
ヒステリー気味の答弁になった。
「それでは反証になりません。星崎社長がそれを望んでいた証拠でしたら、澤井先生がお持ちですが」
マリナは、ここで言わせるのですかと言わんばかりに、夕子を見つめた。
完全に夕子の負けだった。
「もういいだろう。あんたもこれでわかっただろ。女をハダカにして外に出す契約が通るってことがな。そういうことだから、契約を実行して貰おうか」
郷原の声が、夕子の胸を締め付けた。
「郷原さん……」
どこまで本気で言っているのか。会社を離れることは覚悟した夕子だったが、この場でハダカになることも、その姿でここから追い出される自分も、想像できなかった。
「皆さんも、それでいいですね」
顔を見合わせながら、何も抗弁できない役員たち。細井ですら、下を向いていた。
夕子は、言葉を見つけた。
「この人たちの身分は保証して貰えるのですよね」
気がかりではあったが、今、言いたいことではなかった。
どうかお許しください
ハダカにするのは勘弁してください
喉まで出かかっている言葉が、どうしても口から出なかった。
「人の心配をしている場合か。まあ、安心しろ。全員、今まで通りの待遇を約束してやるよ。あんたが気持ち良く脱げるようにな」
やはり、逃れられないか。
「脱ぐ……?」
「そうとも。脱がなきゃハダカになれないだろ」
「あなた、本気でそんなことを」
「もちろんだとも。だが、ハダカになるだけじゃなかったよなぁ」
郷原の目が意味ありげに夕子を舐めた。
「それだけじゃないって?」
食いついたのはマリナの方だった。場違いも甚だしい。これから友だちとどこかに遊びにでも行くかのような調子だった。
「この前、電話で約束したんだよなぁ。朝礼台の上でストリップして貰うって」
「ここで脱ぐんじゃないんですか」
「全社員が見守る中で脱ぎたいんだとよ。星崎社長さんから言い出したことなんだぜ。他には何だったかなぁ」
郷原が振って来た。それを夕子の口から言わせようと言うのか。
返答がないとみると、郷原は続けた。
「そうそう。社員の誰だかにアソコの毛を剃って貰うとか、後ろ手に手錠を掛けて引き回して貰うとか言ってたよなぁ」
「きゃあー、面白そう。私も見ていっていいですか」
「おお、見てけ、見てけ。滅多に見られるものじゃないからなぁ」
「うっれしぃー」
マリナは手を叩いて喜んだ。夕子を羞恥地獄に落とすのがそんなに嬉しいのか。その姿は最早弁護士ではない。ただの野次馬だった。
それにしても、郷原との電話で、ちょっとした言葉の遊びを楽しんだことが、こうした形で仇になって帰ってくるとは。
夕子の視線は、知らない内に真知子へと向いていた。
目が合う。
が、真知子は「私には何もできないわ」と言うように首を振るだけだった。
もうどうにもならないのか。
夕子にとって頼みの綱だった最後の砦も、今や廃墟と化していた。マリヤや真知子だけでなく、あの子まで敵にまわってしまったのでは、夕子を守ってくれるものは何もない。無抵抗のまま丸裸にされ、表通りに放り出されるのは確実だった。
絶望へと向かう思考を中断させたのは、内線電話の呼び出し音だった。受話器を手にした役員の一人は、いかにも申し訳なさそうに告げた。
「玄関に桑野様たちがお見えになっているそうです」
夕子の心臓が凍り付いた。
今の今まで忘れていた。章雄と約束してあったのだ。今日の十二時に章雄と、章雄のご両親と共に食事をしようと。
「あんたの被虐趣味には呆れるよ。婚約者にまで恥を晒そうと言うのだからな」
そんな訳ない、と郷原を睨みつけるが、
「婚約者を待たせる悪い。そろそろ始めたらどうだ」
時計の針は、いつの間にか十二時五分前を指していた。昼礼で、社長交代を発表しなければならない。そして、その後……
よりによって、なぜ今日なのか。
婚約者がいるからと言っても、郷原には全く頓着することはないだろう。むしろ、より苦悩するであろう夕子の心中を察し、楽しんでさえいるようだ。
「先に行っているぞ」さらに郷原は細井に向かって「あんたらの社長さんはお取込み中のようだ。社員への支持は、あんたがするんだな」
「お願いします」と告げる夕子。
「かしこまりました」と返す細井。その目元を見て夕子は悟った。
(細井さん、あなたのなのね)
――露出症は根治できない。唯一の治療方法は露出症の解放である
それが真知子の持論だった。細井も賛同しているらしい。夕子の病気は、そこまで深刻な状態に陥っていると言うことか。
「わかっているよな。このまま何もしなければどうなるか」
そう言い残した郷原に続き、次々と会議室から人が出て行く。
手形はまだ何の手続きもしていない。夕子がここでこうしていれば、時の経過に従って手形は不渡り。星崎工業所は倒産する。
「行くしかないのね」
最後の一人となった夕子は、ハダカになる決心が付かぬまま立ち上がった。
だか、このまま成り行きに任せたところで、朝礼台の上で、全社員の見ているまで着衣を脱ぐなど、できるわけがない。
――催眠術をかけて貰えばいいんですよぉ。
「そうよ。もう、それしかないわ」
会議室を出ると、夕子は真知子を呼び止めた。
◇
夕子は朝礼台に立った。
星崎工業所の全社員の顔がそこにあった。細井から手形決済についての説明があり、新社長として郷原が紹介された。
社員たちのざわめきも、夕子の耳には入っていなかった。誰が手配したのか、夕子の足元には脱衣かごが用意されていた。
後は、合図を待つだけだった。
集まった社員たちの片隅に章雄とその両親の顔が見えた。
(持参金のつもりが、手切れ金になってしまったわね)
婚約は破談にするしかないだろう。章雄に申し訳ないと言う思いも、今は優先順位が付けられなかった。
「それじゃあ星崎社長、脱いで貰おうか」
それが合図だった。
静まり返った社員百二十名余りが見守る中、上着のボタンに手を掛ける夕子。心臓に仕掛けられた時限爆弾が必要以上に大きな音を立てていた。
恥ずかしい、なんて生易しいものではない。
ブラウスになっただけだと言うのに、このまま消えてしまいたいくらいだ。こんな調子で、どこまで保つのか。
それでも夕子の指は、主人の意思を無視して脱衣を続ける。ゆっくりではあるが、着実に肌を露出させていく。
――どんなに貞淑なご婦人でもストリーキングをさせられてしまいます
足元の脱衣かごに夕子の下着が積み重ねられるまで、三分とかからなかった。
顔も名前もすべて知っている星崎工業所の全社員。婚約者だった桑谷章雄とそのご両親。そうした人たちの前で、夕子は生まれたままの姿を晒した。
これが私の望んでいること……
ううん、違うわ。
これはあの子が望んだことよ。
でも、これだけじゃないの。
今から晴夏さんに、あそこの毛を剃られるの。
すべてが丸出しになったら後ろ手に手錠を掛けられて、弘治君に引き回されるの。
良くしてくれたご近所の皆さんにも恥ずかしい姿を晒して、最後は、ショッピングモールに放り出されるの。
ちゃんと見てる?
全部、あなたが仕組んだことよ。
「もう。肝心な時に、いつもいないんだから」
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