第19話 追い込み
細井は、夕子の思惑を、概ね理解してくれた。話している内に夕子の気持も固まっていった。多少のアドバイスも貰った。それなりに自信も付いた。後は実行するだけと思っていたところに、
「社長は、本当にそれでよろしいのですか」
三度目となる細井の問いが、夕子の胸に深く食い込んだ。
あの子には多少難しい部分もあったようだが、今夜、郷原に贈る塩については満足してくれたようだ。
自宅に戻った夕子は、ソファに身体を投げ出した。
壁掛け時計は、夜の八時を指していた。
夕子はスマホを取り出し、アドレス帳の親の仇≠表示させた。コールするのを何度となく躊躇っている内に、ドキドキしている自分に気づいた。
見たかった映画が、今まさに始まろうとしているような。食べたかったスイーツが目の前にお皿に置かれているような。中学生の頃、初めて好きになった男の子に電話を掛ける直前のような。
決して愉快な電話ではないというのに、この気持ちは何なのだろう。
――それじゃあ、俺と結婚して貰おうか
前回の電話が、その言葉で終わっていたからだろうか。
(私ったら、何を期待しているのかしら)
これから、プロポーズの返事をしようと言うのではないのだ。ただ親の仇≠フ表記だけは、他のものに変えても良いかと思ったりもしていた。
それから何度もコールを躊躇っている内に、一時間が過ぎていた。
出なかったらどうしよう。まだ仕事中だったら。機嫌が悪かったら。明日、日中にした方が良いのではないか。
(これじゃあ、まるで思春期の少女だわ)
自分に呆れながらも、最後のタッチができずにいた。
夕子の掛けた電話が郷原に繋がるまで、さらに一時間が経過していた。
「こんばんは、郷原さん。星崎です」
ビジネス調を保ったつもりだったのだが、
『なんだ。今日は妙に色っぽい声を出すじゃないか』
電話に出た郷原の一言で、夕子は素に戻った。
「冗談は止してください。大切な話があって、お電話させて頂きました」
『そうかい。変な期待をしてしまったぜ』
何を期待したと言うのか。
「相変わらず、自惚れが強いようで」
『自分に惚れてなければ、人生、やっていられないだろう』
そういう考え方もあるのかもしれない。と言うか、いかにも郷原らしいと夕子は思った。
「おかげで話しやすくなったわ。色々と仕掛けてくれているみたいじゃない」
『おお、気に入って貰えたかな』
奴隷秘書の件はともかく、リークの件は迷惑でしかない。
「あなたのせいで、会社から追い出されそうだわ。こういうやり方もあったのね」
皮肉たっぷりの攻撃だったが、
『それは困るな。あんたを追い出すのは素っ裸にしてからだ』
まだそれを言うのか。
「残念ながら、ご期待には添えないわね。明日、二十億の預手を取り立てに出します。三日券だから月曜日には資金化されるわ」
そうなれば、郷原の手形の決済は確定する。
(さあ、どうするの?)
『そんなことを言っていいのか』
低くなった声に、一瞬怯んだ夕子だったが、
「どうせ、あなたにできるのは噂を流すくらいでしょ」
『本気で言っているのか』
「あの子なんて、郷原さんはああ見えてヘタレなんだから≠チて言ってるわ」
『誰だよ。あの子って』
「私の秘書よ。会社に来た時見かけなかったかしら。ショートヘアーのメガネっ子」
『昔のあんたみたいだな。それにしても、俺に向かってヘタレとは良い度胸だ』
「そうだ。あの子から伝言があるわ。どうせやるなら下着一枚許さないで≠チて。あなた、いざとなったら何もできないって思われてるわよ」
『だから、素っ裸にしてやると言っているだろう』
「本当にできるのかしら」
『俺を挑発しているつもりか』
「あなた、わかっているの。敵に塩を送れ≠ニまで言われているのよ」
『あの子ってのが、そう言ったのか』
「そうよ。でなければ、あなたになんか電話しないわ」
『わかったよ。楽しみにしているんだな』
夕子は、一気に突っかかっていく自分に気づいていた。郷原が相手だと、なぜいつもこうなってしまうのか。
「だから、そんな日は来ないって言ってるのよ。あの子には悪いけどね」
『なんだ。あんたも期待していたんじゃないのか』
「何を期待するのよ。冗談じゃないわ」
『あの子とやらに言っておいてくれ。星崎社長は、必ず俺が素っ裸にして会社から放り出してやるってな』
「期待しないようにと言っておくわ」
手形が決済されれば代位弁済契約は意味を成さない。このままでは、郷原の計画は、すべて水泡に帰すことになる。
『いや、期待して貰おう。あんたにもな』
「何の自信かしら」
『あんたこそ、それだけの自信があるなら約束して貰おうじゃないか。代位弁済契約実行の際は、もっと恥ずかしい思いをさせてやるぜ』
全裸で外に出すだけでは済ませないと言うのか。
夕子の心臓の鼓動が高くなった。スマホを通じて、郷原にまで伝わってしまうのではないかと思う程に。
「何をさせる気よ」
『そうだなぁ。まずは全社員の前でストリップだな』
皆の見ている前で、着ている服を一枚ずつ脱がせてやる、と言う。そんなことができる訳ないと思いながらも、夕子は引けなかった。
「いいわよ。全社員を集めて、朝礼台の上で脱いであげるわ」
『言ったな。後になって飲み込むなよ』
「何なら、ICレコーダーでも持って来ましょうか」
『あんたを信用しておくよ。ついでだからドテ毛も剃って、女の縦割れまで晒して貰おうか』
ドテ毛……恥毛のことか。夕子は晴夏の顔を思い出した。
「それは良かった。ちょうど剃りたいと言っている子がいるのよ」
『あんたにそんな仲の女がいたとはな』
「私を後ろ手に縛り上げて引き回したいと言っていた男の子もいるわ」
『ほほう、いいだろう。全部、叶えてやれよ。約束したからな。それにしても、あんたの会社は変態ばかりじゃないか』
実行されたらとんでもない話だが、所詮は言葉の遊びに過ぎない。どう転んだところで、これらの約束が現実になる未来はないのだから。
「あなたに言われたくないわよ」
余裕の会話を続ける夕子に、
『全部、俺が実行させてやるよ。女や年寄りには酷な所業だからな』
真知子と細井のことを言っているのか。
「それって……」
『今日はこれくらいにしておくか。おがけで良い夢を見られそうだよ』
夕子の問いかけを無視して電話を切ろうとする郷原に、
「ちょっと待って。一応、お礼だけは言っておくわ」
『何のことだよ』
「事故のことよ。あなた、命の恩人なんでしょ」
夕子は、胸の奥でありがとう≠ニ呟いた。
『そのことか。真知子から聞いたよ。事故現場に行ったそうだな』
夕子は、澤野真知子が郷原の元カノだったことを思い出した。
「もう連絡があったのね」
『恩人だなんて思わないでくれ。俺はあんたの親の仇。そう思っていてくれなきゃ、この先がやりにくいぜ』
何をやろうと言うのか。
「お礼を言うのは一回だけよ。あなたが両親の仇であることに変わりはないわ」
それを最後に通話を切った。
肩で大きく息を吐き、夕子は、アドレス帳の文字を睨み付けた。
(わかっているの? 預手は月曜日に資金化されるんだからね)
◇
翌木曜日の朝、ラジオ体操の朝礼台に山野晴夏が上がっていた。夕子の注文通り、スカートを履いて体操をしていた。若さあふれる動きにスカートの裾が翻る。朝礼台の近くにいる男性社員は、さぞかし目が踊っているに違いない。
(わざとやっているのかしら)
それはともかくとして、始業前から目の毒と言うものだ。夕子は反省しつつ、後で晴夏に謝っておかなければと思った。
体操が終わり、朝の連絡事項が済んだ後、夕子は晴夏を呼び止めた。
「ごめんなさいね。恥ずかしかったでしょ」
素直な言葉が出ていた。
「恥ずかしかったですよ。スカートの裾、かなり意識しちゃいましたからね。あれならいっそのこと、水着の方がマシですよ」
思いの外、明るい答えに、夕子はホッと胸を撫で下ろした。
それにしても、全社員に囲まれた朝礼台に水着姿で立つと言うのか。その恥ずかしさは、スカートの比ではない筈だ。
「それじゃあ夏になったら、是非、やって貰おうかしら」
夕子には絶対に無理な相談だが、晴夏なら、本当にやるかもしれない。
「いいですよ。その代り、社長も一緒ですからね」
「私も? ううん、私はもう無理よ。見る方が気の毒だわ」
思わず朝礼台に目を見てしまう夕子。
「そんなことないですよぉ」
晴夏は言うが、お世辞なのはわかっていた。それでも夕子は、せっかくの良い雰囲気を壊したくなかった。
「ダメ、ダメ」と手を振りながら、何とかやりすごそうとしたのだが、
「わかりました。でも、約束は守ってくださいね」
晴夏の口元に怪しい笑みが浮かんだ。
「約束って……まさか」
「社長、約束しましたよね。スカートで体操したら、アソコの毛、剃らせてくれるって」
確かに言った。それは間違いないが、晴夏はどこまで本気で言っているのか。
表情は崩していない。相変わらず笑顔のままだ。
何にしても、晴夏は夕子との約束を守ったのだから、夕子もまた守らなければならない。それはわかっているのだが、内容が内容だった。
「いいわ。後できちんと話しましょう」
晴夏は目を輝かせていた。レズの趣味でもあるのだろうか。
「絶対ですよ」
「約束は守るわ」
自分の仕事場に向かう晴夏の背中を夕子は追い続けた。
悪い子ではないのだと思う。夕子に対する敵意も、言葉で言う程ではないのかもしれない。アソコの毛を剃るというのも、晴夏たちの間ではよくあることなのか。いや、さすがにそれはないか
いくら考えても答えは見つけられそうになかった。
最悪の場合、晴夏を自宅に招き、一緒に風呂に入って剃毛の真似事をするしかないのかもしれない。
◇
社長室に入ると間もなく、取引銀行の担当者が部下と二人で訪ねて来た。預手を入金するから取りに来て欲しいと依頼しておいたのだ。
二十億円の預手と聞いて、担当者は喜んで取りに来た。
細井に立ち会って貰い、預手と入金帳を渡す。担当者は預かり証を発行すると、預手を鞄に詰め、出されたお茶に手を付けることもなく引き返して行った。金額が金額だ。一刻も早く銀行に持ち帰ろうとするのも当然だった。
「では社長。その他の件も打合せ通りに進めておきます」
細井が、夕子のデスクの前で一礼した。
夕子の自宅を会社で買い取り、その代金を章雄に振り替える件だ。その中には、第三者への対抗要件として仮登記の手続きも含まれていた。
「お願いしますね」
最悪のケースを考えれば、どうしても今日中に処理しておかなければならない。細井は夕子以上に理解しているから、任せておけば問題ないだろう。
細井を見送り、デスクの上の預かり証を見下ろす夕子。
「郷原さんの自信って何なのでしょうね」
あの子が呟く。それは夕子も知りたかった。郷原は終始一貫して、夕子をハダカで追い出すと主張し続けている。星崎工業所の役員たちも、夕子自身も、郷原の希望通りにはならないと考えているにも関わらずに。
「私の方こそ、それだけの自信があるならって、追加の約束をさせられてしまったわよ」
朝礼台の上での公開ストリップ。
剃毛。
全裸の引き回し。
考えてみたら、大変な約束をしてしまったものだ。夕子は、朝礼台に立った晴夏の姿を思い出し、あの同じ場所で脱衣を迫られた自分を想像した。全社員の視線を集めるあの場所では、スカート一枚脱ぐこともできないだろう。
郷原は本気でそこまで要求するのだろうか。
「私としては、郷原さんがヘタレでないことを祈るばかりです」
あの子は機嫌が良さそうだ。昨日までは郷原に対して否定的な意見が多かったように思うが、どうした心境の変化だろうか。
「ちゃんと塩は送っておいたわよ」
――預手は月曜日に資金化されるんだからね
つまり、今日と明日しか余裕がないと言う意味だ。
郷原には、それが伝わっているのだろうか。夕べの電話で、声のトーンが変わったことは間違いない。何かしらは感じていたのだろうが、その後の自信たっぷりな態度は、以前と全く変わっていなかった。郷原にとっては、手形の決済など全く関係ないとでも言わんばかりに。
「教えて貰えませんかねぇ。何で塩を送ったことになるんですか」
あの子にはわからないらしい。
「郷原さんが持って来た手形には、支払期日が入ってなかったのは知っているわね」
そう。この話はそこから始まったのだ。
「はい。それを一ヶ月、伸ばして貰ったんですよね。社長のハダカを担保にして」
イヤな言い方をするものだと思ったが、まあ、そういうことだろう。郷原が夕子に復讐を企んでいたからこそ成立した手形ジャンプだった。
「このまま一ヶ月後まで待っていたら、手形は確実に決済されてしまうわ。だから郷原さんにチャンスを上げたのよ。手形を決済できない空白の時間を作ってね」
銀行渡りの預手は、取り立てに出してから資金化されるまでの間に数日を要する。ついさっき預けた預手が使えるようになるのは月曜日。それまでの間は通帳に残高として記帳されているだけだ。
つまり、郷原がもし、資金化の前に手形の支払期日を指定して取り立てたら、星崎工業所は支払う原資がないことになる。預手を取り立てに回す前なら手形割引でも緊急融資でも手段を講じる余地はあるが、回してしまった後ではどうにもならない。
「組み戻せばいいんじゃないですか」
「その方が、時間がかかるわよ」
「でも、それって賭けですよね。うちがいつ預手を取り立てに回すか、郷原さんにはわからない訳だし……あっ、なるほど。それで塩≠ナすか」
あの子にも理解できたようだ。
夕子は夕べの電話で、郷原に明日、取り立てに出す≠ニ宣言した。空白の期間を、わざわざ知らせたことになる。
問題は、郷原が夕子のスキームに気付くかどうか。
「これ以上はないわ」
夕子にしてみたら、まさに出血大サービスだ。今日か明日付けで手形を取り立てられたら、代位弁済契約を実行しなければならなくなる。それはすなわち、夕子が無一文になると言う意味だ。
「社長も、いよいよ素っ裸ですね」
あの子が嬉しそうに笑う。
「ハダカになんかならないわよ」
「ええええー。だってぇ、代位弁済が実行されたら身ぐるみ剥がされるんでしょう」
夕子の心臓に大きく圧し掛かる何かを跳ね除け、
「まだ、最後の砦が残っているわ」
「わかってますよぉ。でも、郷原さんだってそれくらいわかっている筈だし、郷原さんの目的は社長を無一文の素っ裸で会社から放り出すことだし……」
そんなことはわかっている。
わかっていて、この塩≠送った夕子だったが、送った後で、改めて、あの日の郷原の言葉が思い出された。
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すべての個人資産と書いてあるだろう。無一文になるだけでは済まさねぇ。その時、あんたが着ている服もすべてだ。下着一枚許さねぇ。素っ裸にして表通りに放り出してやるから、覚悟しておくんだな
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
プレッシャーが半端ではなかった。
この状況になってみて初めて感じた。預手を取り立てに出してしまったことを後悔した。その情報を郷原に電話してしまったことが悔やまれてならない。こんなにも追い込まれた気持ちになるとは、思ってもみなかった。
郷原が、夕子のスキームに気付かないで欲しいと心から願った。
「そ、それにまだ、そうなると決まった訳ではないわ」
夕子が言い終わると同時だった。
細井が、緊張した面持ちで社長室に入って来た。
「郷原氏から連絡が入りました。十億の手形は明日付けで取り立てに出したと」
両肘をデスクに付いたまま、夕子の全身がフリーズした。
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