第8話 問診票
週明けの月曜日、星崎工業所では役員会が開かれていた。十億円の手形対策であることは言うまでもない。一度、結論が出たように見えたが、夕子の立っても願いもあり、再度調査してその結論を持ち合ったのだ。
議事は前回の焼き直しに終始した。
T自工との特許売買契約がなされた今、問題は無いに等しいとする意見が大半だった。
それでも尚、手形が落とせなかった場合、夕子の結んだ代位弁済契約によって夕子自身は破産するものの会社は救われる。公序良俗の法理に守られ、夕子がひどい目に遭うこともなく、また、同契約が実行された翌日付で夕子が失った財産相当の退職金を支払う準備を整えた。
《契約自由化法》については、問題にする者もいなかった。
それはそうだろう。夕子の結んだ代位弁済契約書には、《契約自由化法》に則り≠ニの記述もなく、専門家の承認も法律家の確認も行われていない。適用以前に、同法をクリアする要件を満たしていなかったのだ。
(何をムキになっていたのかしら)
夕子も、我ながら呆れる始末だった。
「手形が決済されるまでは気を抜けませんぞ」
油断があってはならないと一同の意識を引き締める細井だったが、役員の中には「郷原には手も足も出させません」と大見栄を切る者もいた。
「もっとも、社長が自らハダカになって、私どもに見せてくれるというのなら別ですが」
調子に乗って高笑いする者もいた。
夕子も異論はない。この件に関して言えば、気持ちもかなり落ち着いていた。
「皆さんに聞いて頂きたいことがあります」
今がチャンスかもしれないと思った。
急な展開と夕子の真剣な表情に息を飲む役員たち。
「今回の件が一段落致しましたら、私は社長の任から離れようかと考えております」
どこからも声が出なかった。ある程度は予想していたこともあるだろう。先代の社長から引き継いで以来、夕子がどれだけ苦労して会社を引っ張って来たか、熟知している者たちばかりだった。
「辞めて、どうなさるのですか」
細井が沈黙を破った。
「あら。私が寿退職したらおかしいですか」
夕子がおどけて見せる。
「なるほど。社長は女でしたな」
「まあ、ひどい言い方だわ」
「これは失敬。ですが、寿退職と言うことであれば致し方ありませんな」
役員会の面々には、日ごろから夕子を会社から解放してやりたいと言う思いがあったに違いない。寿退職はともかく、ちょうど良い機会と考えてくれたのだろう。
「その時は、よろしくお願いします」
和やかな空気の中で役員会は終了した。
◇
社長室に戻った夕子は、溜まっていた事務仕事に取り組んだ。手形の件や、それに伴う調べ物――主に《契約自由化法》にまつわる件だった――のせいで、遅れている仕事も多かったのだ。
あの子は何も言って来ない。例の投稿の件で何かあるに違いないと思っていたのだが、肩透かしを食ったようだ。
(あれは何だったのよ)
夕子には、ある疑惑が生まれていた。
投稿に登場するY子とは夕子のことで、A子とはあの子のことではないのか。
つまり、例の投稿はあの子がしている。夕子に読ませて、より恥ずかしい命令を出そうと計画しているのではないか。
夕べ、恥部を弄りながら大脳を働かせ続けた結論だった。
(全裸にするつもりなら、してご覧なさいよ)
夕子は、横目であの子を睨みつけた。気づいたあの子が、
「何ですか」
「ううん。何でもないの」
「変な社長」
一日の内に、そんなやり取りが何度かあった。
(おかしいわ。あの子は絶対にわかっている筈よ)
例の投稿の件ばかりではない。夕子は自身の中に、満たされない何かを意識していた。わかっているのに、何も言ってこないあの子に焦れていた。
だが、夕子の方から仕掛けることはできない。「何か命令してよ」とは口が裂けても言えなかった。
郷原も郷原だ。あれから何も言って来ない。
あの日の電話で「少し動いてみるか」と言っていたのはウソだったのか。役員の誰かが言っていたように、手も足も出ないのか。
「期待に応えてくれるんじゃなかったの」
つい声に出ていた。
「えっ。何ですか」
あの子が拾うのも無理はない。
「ゴメン。本当に何でもないの」
いい加減、別の言い訳を考えなくてはと思っていると、
「そうそう」とあの子が言い出した。
「社長をハダカにして外に出すのは、郷原さんにお任せすることにしたんです」
この通りだ。あの子はやはり、最初からわかっていた。
「何よ、それ」
夕子は不満を露わにした。郷原は恐らく何もできない。このまま手形の期日を待つことになるだろう。
「いいじゃないですか。その時はまた、私が引き受けますよ」
ふと思った。あの子の中では、夕子の未来が確定しているのではないだろうか。夕子にとって好ましいとは思えない未来に。
◇
結局、その日は何もないまま、残務に追われて終わった。
翌日も続くのかと思っていたら、午後になって予約を入れた心療クリニックからメールが届いた。予約が取れたことの確認と共に、問診票が添付されていた。該当項目を記入して送り返すようにとの指示だった。
「合理的と言えば、合理的ですけどねぇ」
あの子が半ば呆れたように言う。問診票にデータは個人データの中でもかなり重要な部類だ。さすがにSSL等の対策は講じられていたが、当日、持参しようとする者も多いのではないだろうか。
「こんなの面倒だから、キャンセルしようかしら」
冗談交じりに同意を求める夕子だったが、
「ダメですよ。露出症だって認めて貰うんでしょ」
「だから違うって……」
「正直に書いてくださいね。そうじゃないと正しい結果は出ませんよ」
あの子のテンションに押されて、問診票を読み進める夕子。
章雄にしたところで、郷原にしたところで、夕子を自由にしたかったら、これくらいの強引さが必要なのかもしれない。
一枚目は一般的なストレスチェックだった。まあ、結果は推して知るべしだろう。
問題は二枚目。
精神疾患を抱えた人、あるいは、そうではないかと疑う人用の物だ。夕子の場合は、先日も予約の際、露出症の可能性に言及していた。それが項目に反映していたのは当然と言えばそれまでなのだが、
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問一 ハダカで街を歩きたいと思ったことはありますか。
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一問目からひっくり返りそうだった。
だが、そういうものだと思うしかないのだろう。事前診断のための問診票なのだ。似たような質問がズラリと並び、はい≠ゥいいえ≠ナ答えるようになっていた。
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問二 不特定多数の人にハダカを見られたいと思ったことはありますか
問三 プロのカメラマンにヌード写真を撮って貰いたいと思ったことはありますか。
問四 絵画のヌードモデルにならなってみたいと思ったことはありますか。
問五 アダルトビデオに出演したいと思ったことはありますか。
問六 ハダカになるようにゲームをしたいと思ったことはありますか。
問七 ストリーキングに興味はありますか。
問八 ヌーディストビーチに行ってみたいと思いますか。
問九 混浴に興味はありますか。
問一〇 誰もいない場所なら、ハダカで外に出たいと思いますか。
問一一 ビーチでトップレスになってみたいと思ったことはありますか。
問一二 ハダカの上にコート一枚で外に出たことはありますか。
問一三 下着なしで人混みを歩いたことはありますか。
問一四 水着になるのは好きですか。
問一五 お臍の出る服で人前に出ることはありますか。
問一六 レオタードは好きですか。
問一七 ミニスカートは好きですか。
問一八 身体の線がくっきりと出る服は好きですか。
問一九 胸元の大きく開いた服を着るのは好きですか。
問二〇 野外露出系のサイトやDVD、雑誌を見たいと思いますか。
問二一 露天風呂は好きですか。
問二二 セルフヌードを撮ってみたいと思いますか。
問二三 お風呂上りにバスタオル一枚で過ごす習慣はありますか。
問二四 自宅ではハダカでいたいと思うことがありますか。
問二五 自宅の庭にハダカのまま出たことはありますか。
問二六 自分の裸体を鏡に映してみるのは好きですか。
問二七 自分の裸体をきれいだと思いますか。
問二八 自分を露出症だと思いますか。
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夕子は全部いいえ≠選択した。
こんなもので何がわかるのだろう。そうした反発から生まれたものだ。特に最後の
――自分を露出症だと思いますか。
これは質問する方がどうかしている。自分を露出症だとは思いたくないから心療内科に掛かろうとしているのではないか。患者の心情をもっとよく考慮した問診票にして欲しいものだと、夕子は心の底から思った。
最後に二問ほど、記述式の設問があった。
問二九 自分が露出症ではないかと思ったきっかけはなんですか。
問三〇 あなたが最近見た夢を教えてください。
問二九に関しては正直に書くことにした。
手形の決済を伸ばして貰う代わりに代位弁済契約書を交わした。その内容が無一文の素っ裸で表に放り出されること=B公序良俗違反だと思っていたが、《契約自由化法》の適用を受けられるようなら、どんな破廉恥な行為でも実行しなければならなくなる。それを避けるために、夕子は露出症ではないとの診断を得たい、と。
問三〇については「覚えていません」と書いてしまった。自分の勤める会社で全裸にされ、放り出されるところを夢に見てしまったとは、どうしても書けなかった。
「ああー、ウソばっかりぃ」
あの子が覗き込んでいた。
「そうかしら」
夕子はとぼけて見せた。
「でもここに書いてありますよ。潜在的に重度の露出症である人ほど、自分が露出症である事実を隠そうとするものです、って」
だから正直に答えるように、と言う注釈が付いていた。
「これくらい見抜けないようなら心療内科医なんて信用できないわ」
「ウソ吐きの罰も用意しておいて欲しいですね」
「どんな罰よ」
「ハダカで家まで帰るとか」
「そんなことしたら、露出症がますます悪化してしまうわ」
「あっ! それもそうですね」
この場は夕子の勝ちだった。考えてみると久しぶりかもしれない。
と、思っていたら、
「それじゃあ、たっぷりと悪化して帰って来てくださいね」
やはり、あの子には勝てなかった。
夕子は問診票のデータを纏めると、送られて来たメールに添付して返信した。返信した上で、もう一度、問診票を見直す。
「それにしても、全部はい≠ニ答えた人は、露出症を通り越して露出狂だわ」
はたしてそんな人がいるのだろうか。
「社長の目標ですね」
「あなたねぇ。私を何だと思っているの」
冗談を言っている場合ではないのかもしれない。送信完了のウインドを見て、夕子は急に不安になった。本当にこれで良いのかと。
いつの間にか心療内科を受診する流れになっている。もし仮に夕子が露出症であると認められてしまったらどうするつもりなのか。《契約自由化法》の適用を受け、最後の砦を攻め落とされてしまう可能性が高くなるのは間違いない。何もしなければ安泰だと言うのに、これでは郷原の思うツボではないか。
もっとも、夕子の法解釈が正しければの話だ。
ふと思い当たり、夕子はもう一度メールソフトを立ち上げた。診療内科なら、夕子の場合と同じような例があったかもしれない。法律顧問もいるのではないか。
夕子は自分でまとめた《契約自由化法》に関するレポートを、後追いで、米倉クリニックのアドレスに送りつけた。
自宅に帰ったのは十二時を過ぎる頃だった。夕方から始まった同業者の会合が伸び、その後、役人の接待に付き合わされた。夕子のような美人がいると役人たちも鼻の下を伸ばすため、駆り出される機会も多かった。
お風呂で疲れを落し、ビールのグラスを片手に、バスタオル一枚の火照った身体をソファに投げ出す。一日の内で最ものんびりできる時間だった。
夕子は、問診票を思い出した。
(そう言えば、こんな設問もあったわね)
――お風呂上りにバスタオル一枚で過ごす習慣はありますか。
今の夕子が、まさにその格好だ。女性の一人暮らしなのだ。これくらい当たり前ではないかと疑いもしなかった行為だ。
(こんなのも露出症と関係あるのかしら)
――自宅ではハダカでいたいと思うことがありますか。
考えてみれば夕子一人なのだ。バスタオルなど意味がないのかもれない。
夕子は立ち上がり、バスタオルを床に落とした。浴室でもない場所で全裸というのは、やはり抵抗がある。誰が来るという訳では無いし、どこからか覗き見られている訳でも無いのだが、そこはやはり幼い時からの教育か。それとも女の本性か。
――自宅の庭にハダカのまま出たことはありますか。
夕子は中庭に顔を向けた。カーテンが引かれているため外は見えないが、芝がきれいに生え揃った庭がそこにはある。
(こんな格好で外に出ろと言うの)
別に命令された訳では無い。出たことがあるかと問われているだけだ。
もちろんハダカで庭に出た記憶は無い。あったとしても、幼い頃、ビニールプールで遊んだ時くらいか。
子供の頃はハダカでも平気なのに、大きくなるにつれてそれができなくなる。身体が大人に成長するからか。それとも心が成長するからか。
夕子はカーテンに近づき、そっとその端を掴んで外を覗いた。
(やっぱ、出られないわ)
夜中のこんな時間でも、誰もいないとわかっている自宅の庭でも、ハダカで外に出ることなどできない。まして、
――ハダカで街を歩きたいと思ったことはありますか。
街中など、以ての外だ。
それに、歩きたいと思うのと、実際に歩くのでは大きな違いだ。夕子の場合、歩きたい≠フではなく、歩かされたい≠フかもしれない。
だが、それはあくまで妄想の中の話だ。実際にハダカで街中を歩くなど考えられない。あの子に命令されなくて良かったのだ。
――社長をハダカにして外に出すのは、郷原さんにお任せすることにしたんです
(あの子も、案外、ヘタレだったりして)
思い切ってカーテンを開けてみる。ガラス戸に夕子の裸身が映った。いつもならいやらしく見える全裸像が、なぜかとてもきれいに見えた。
(このハダカを外に出すの?)
あの子はヘタレでも、郷原ならやるに違いない。そんなことを考えていた時だった。
スマホの呼び出し音が鳴った。
ディスプレイには「親の仇」と表示されていた。
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